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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 [email protected]

大フィルのクラリネット奏者のように演奏する

2025-03-31 21:01:00 | ロマン派
日曜日は韓国大邱市の交流がコンサートの練習が六甲アイランドセンターのラサーラ ディ オルフェオフルートアンサンブルエスカルでありました。

LINEで14:00〜と書いてあったので行ってみると、魚崎辺りで「久米さん来る?」と連絡が「今日は13:00からですよ。」
「えっ!」とボートライナーの中で飛び上がった私。

早めに出たつもりが、大遅刻。
グループLINEをよく見返してみると「13:00からに訂正します。」との1文が…。

ひゃ~!

他にも2人ほど2時だと思っていました。

着いてみると「アルルの女」組曲をやりますが、1は終わって2は途中でした。
が〜ん!本当に落ち込みます。

「メール送ったよね!」と榎田先生。
「すみません。見逃してました。」と頭下げて入りました。
クヨクヨしている暇はありません。
すぐ練習に加わりました。

前はバスを吹いていたので、3rdは初めて。
その上楽譜が見えにくい。
送ってもらったPDFがいくらプリントアウトしなおしても薄いです。
全部音名を振ってみましたが、慣れてないからうまく読めません。

後で原譜を再コピーさせてもらいました。

韓国演奏に行くメンバー外部の人も加わって、うまい人が多くて、吹きやすくとても刺激になりました。

韓国の練習の後は、いつものメンバーでエスカルの練習。

大阪と神戸、メンバーどちらに参加してもいいシステムです。
神戸でするのは久しぶりです。

いつもの「フィンガルの洞窟」ドボルザークの「セレナーデ」を練習しました。

「フィンガル」を必死で間違えないように吹いていたら、「冷たすぎるんだよ!」と榎田先生の檄!

「大フィル時代にここはクラリネット2本で演奏するんですが、それが本当に美しかった。

ただ吹くんじゃなくてもっとこうなんていうかもっと情感を込めて!」

うーん!大フィルの名手と比べられても…と思いましたが、やるしかありません。
こちらも必死。
絶対になんとかします。

フェリックス メンデルスゾーン バルトルディ(1809−1847年)自由都市ハンブルク生まれ、プロイセン王国ベルリン没

1830年
『フィンガルの洞窟』作品26は、1830年に作曲した演奏会用序曲です。

原題は『ヘブリディーズ諸島』(Die Hebriden)ですが、日本語では通称の『フィンガルの洞窟』の方が多く用いられています。


二度目の旅に出発しました。
彼の両親が彼に資金を提供しました。
旅の目標:はフェリックスが世界市民になること。数か月または数年かかるこのような旅は、非常に費用がかかります。

両親は彼を誇りに思っていることを示しています。


メンデルスゾーンがゲーテのために演奏する、1830年、モーリッツ・オッペンハイム作、1864年

メンデルスゾーンは5か月間ベルリンの自宅に滞在しました。

その後彼の最初の教育旅行はイングランドとスコットランドでした。

そこで彼は音楽家、出版者、イギリスの貴族とのつながりを確立しました。

この時、メンデルスゾーンは21歳、すでに芸術の頂点に達していました。

最高の指揮者の一人、最も想像力豊かなピアニストの一人、そして当時の最も興味深い作曲家の一人として、大衆は彼を愛し、崇拝していました。

1830年発行ヘプリティーズ諸島の表紙 王立大学図書館ロンドン

「フィンガルの洞窟」についての詳細はブログに取り上げたので
https://blog.goo.ne.jp/m-fluteangel16/e/0c7b5531f0905d9cecf4d5b5a9e57b7f

今回は在りし日の朝比奈隆先生指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団のメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」
おそらくフルートは榎田雅祥先生


失敗はみんなする!あの天才も…。

2025-03-30 20:38:00 | ロマン派
阪南ギタークラブのコンサートにでてきました、
打上げも参加しようと思っていましたが、次男が金曜日仕事から帰ってきたらお熱。
すぐに部屋に隔離。
食欲無いと言うのでお粥を作って運んで…。
朝もお粥。
さすがに打上げまでは無理。ということで昨日キャンセルして(ごめんなさい🙏💦)、朝2時間かけて阪南市尾崎まで、サラダホールに着きました。

ラピートは乗ってないけど、かっこよかったから

特急のサザンには乗りました。後ろ3両自由席は特急料金無し。

主催の山本さんが温かく迎えてくれました。

さて、結局1回も合わせられなかった北山さん。
こういう時も対処できなくては。緊張は何もいい結果を生みません。
リラックスしてベターを出してもらう作戦です。
にっこり笑顔でね!

2時間部屋を借りて悪戦苦闘。
本番は…。
まあ人生いろいろなことがあります。
冒険もたいがいにしましょう。

古今東西の作曲家もたくさん失敗し、落ち込んでいます。

実際ブルックナーも何度も何度も失敗しました。
規模もレベルも違いすぎるけど…。

ヨーゼフ アントン ブルックナー(1824-1896年)オーストリア帝国アンスフェルデン生まれ、オーストリア・ハンガリー帝国ウィーン没

交響曲第3番ニ短調は、1873年に最初の稿が完成された交響曲で、自分で番号を与えた3番目の交響曲にあたります。

リヒャルト・ワーグナーに献呈されたので「ワーグナー」という愛称も付けられています。

1873-74年初稿表紙
1872年に着手し、1873年に初稿(第1稿または1873年稿)が完成しました。

初稿執筆の最中の1873年、ブルックナーはリヒャルト・ワーグナー(1813-1883年)

1871年
に面会し、この第3交響曲の初稿(終楽章が未完成の状態の草稿)と、前作交響曲第2番
交響曲第2番の表紙
の両方の総譜を見せ、どちらかを献呈したいと申し出ました。

ワーグナーは第3交響曲の方に興味を示し、献呈を受け入れました。

この初稿により1875年、ヘルベック指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演が計画されましたが、リハーサルでオーケストラが「演奏不可能」と判断し、初演は見送られ、失敗しました。

1876年、ブルックナーはこの曲の大幅改訂を試み、1877年に完成しました。

1877年第2稿

同じ1877年、ブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮して、この曲は初演されました。

この初演は、オーケストラ奏者も聴衆もこの曲に理解を示さず、ブルックナーが指揮に不慣れであったことも手伝い、演奏会終了時にほとんど客が残っていなかったそうです。
残念。

とはいえ、残っていた数少ない客の中には、曲の初演準備のために2台ピアノへの編曲作業を手伝った、若き日のグスタフ・マーラー

ベルツ作1897年リトグラフ
もいました。

この初演の失敗により、ブルックナーはその後約1年間、作曲活動から遠ざかりました。

1878年、この曲が出版されることになり、それにあわせて一部修正を行いました。

1888年、再度この曲は大幅改訂され、1889年に完成しました。

2版改訂版
この稿は1890年に、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによって初演されました。
この第3稿での初演でようやく成功を収めました。

この曲の初稿をワーグナーに献呈する際、ブルックナーは表紙に「ワーグナー」の文字を華やかな金泥色で記すよう指示しました。

印刷された表紙は、ワーグナーの文字の方がブルックナーよりもずっと大きいです。

1873年8月31日、ブルックナーはこの作品と旧作の第2交響曲の楽譜を持ってバイロイトのワーグナー宅を訪問しています。

風采の上がらないブルックナーを見て、ワーグナー夫人のコジマ(1837−1930年)

1877年
は、物乞いと勘違いしたと言われています。本当かな?

ワーグナーはバイロイト祝祭劇場建設のプロジェクトに忙しく、

バイロイト祝祭劇場
献呈に興味を示さずほとんど門前払いの形でブルックナーを帰らせました。

しかし、後で楽譜を見て感動し、劇場建築現場にたたずんでいたブルックナーを連れ戻して抱きしめ、

「私はベートーヴェンに到達する者をただ一人知っている。ブルックナー君だよ。」と称賛しました。

献呈を快諾された晩、ワーグナー夫妻とブルックナーは2時間半程歓談したという記録が遺されています。
ワーグナーがしきりにビールを勧め、ブルックナーはすっかり酔ってしまいました。

ホテル「金の碇」Zum goldenen Anker Bayreuth 今も残るバイロイト祝祭劇場に近いホテル、ここでワーグナーとブルックナーの対面は行われました。ホテルのにやりとりが便箋が残っています。

翌朝ブルックナーは、ワーグナーがどちらの交響曲の献呈を受け入れてくれたのかすっかり忘れてしまっていました。

同席していた彫刻家キースに尋ねると
「ニ短調の交響曲についての話でトランペットが話題になっていました。」とこたえました。

そこで、念のためにとホテルに備付けられた便箋に、

「トランペットで主題が始まるニ短調交響曲(の方でしょうか)。A・ブルックナー」

「Symfonie in D moll, wo die Trompette das Thema beginnt. A. Bruckner mp.」

と書いてワーグナーに送ったところ、同じ紙に書き添えて

「そうです! そうです! 敬具。リヒャルト・ワーグナー 」

「Ja! Ja! Herzlichen Gruss! Richard Wagner」

との返事がありました。

交響曲第3番の自筆譜は、2台ピアノ編曲作業を手伝った経緯から、マーラーが所持していました。

マーラーの夫人アルマ(1879-1964年)

は、アルマ自身とマーラー、3度目の夫ヴェアフェルのいずれもユダヤ人の出自であったことと、ナチスがブルックナーの音楽を(ワーグナーと同様に)政治利用していたため、ナチスから所持品を没収されることを怖れ、マーラーの遺品のトランクの中からこのブルックナーの交響曲第3番の自筆譜を見つけ出し、1939年にアメリカへ密輸しました。

後、戦後オークションにかけました。

交響曲第3番 第3稿によるものです。



謎の2楽章

2025-03-29 20:51:00 | 古典
金曜日の朝は久しぶりに長居公園近くの木村直子先生、雅雄先生のカルテットレッスンでした。
ヴィオラの金重美代さんのレッスンで、フルートを吹きます。

今回は、モーツァルトのフルートカルテットGdur、4曲のカルテットを1年一曲仕上げ、4年目最後の曲です。
この曲以外は3楽章ですが、これは2楽章しか伝わっていません.。

直子先生が、「この曲素晴らしいねぇ。この複雑なアンサンブル!モーツァルト晩年の作品みたいですね。」

通説では21歳の時の作品ですが、この曲はわからないことが多いのです。
確かに曲の構造は晩年かもしれないと今更ながら思いました。


ヴォルフガング アマデウス モーツァルト(1756−1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

1777年のモーツァルト
フルート 四重奏K.285aGdur
は、
21歳の頃、
ボン出身でオランダ東インド会社に勤務した裕福な医師(理髪外科医)フェルディナント・ドゥジャンが200フローリンで「小さくて軽く短い協奏曲を3曲と四重奏曲を何曲か作ってくれ。」と頼まれたために作られた3曲の四重奏曲の1つと考えられています。

結局この時は一説によるとアロイジア ウェーバーに夢中で、注文通りに作ることができませんでした。
そのため96フローリンしか報酬を貰えず、父親に不満を訴える手紙を書いています。

父レオポルドはそんな息子を窘め、不十分な仕事を行わず、真面目に励むように書いています。

Gdurのカルテットは1778年1月か2月にマンハイムで作曲されたものと考えられています。

しかし自筆稿が現存せず、モーツァルトの死後まもない1792年に出版された初版は、なぜか第1番 Ddur K. 285の第1楽章の後にこの2つの楽章をつけて3楽章形式とされているなど、妙なことも起きていました。

交響曲第40番1788年、アイネ・クライネ・ナハトムジーク1787年などこの頃はマンハイム楽派を取り入れた作品を書いています。

マンハイム楽派の特徴
■マンハイムクレッシェンド
突然のクレッシェンド、オーケストラ全体で展開されるクレッシェンドとディミヌエンド、

■マンハイム・ロケット
ピアノのリリースを伴うクレッシェンド、(クレッシェンドを伴う上昇するアルペジオの旋律線を伴う、急速に上昇するパッセージ)
あるいはベースラインの最低音域からソプラノラインの最高音域まで急速に上昇する分散和音

■マンハイム・ローラー(オスティナートのベースラインの上に上昇する旋律線を伴う、拡張されたクレッシェンド・パッセージ)、

■マンハイムのため息
(下降するスラー音のペアで最初の2音に重点を置くバロック音楽の慣習を様式化したもの)

■マンハイムの鳥
(ソロ・パッセージでの鳥のさえずりの模倣)

■マンハイム・クライマックス(弦楽器以外のすべての楽器が演奏をやめる高エネルギーの部分で、通常はマンハイム・クレッシェンドが先行する)、

グラン・ポーズ
演奏が一瞬止まり、完全に沈黙した後、勢いよく再開。

この曲の中で扱われているのはマンハイムクレッシェンドとグラン・ポーズですが、それは。より複雑な旋律の重なりの後で洗練された形で使われています。
マンハイム楽派を取り入れて進化してる!
と、私は思うのですが、どうかな?
だから、1787年の一曲ではなくて、もっと後期の作品の可能性も有りと思いますがどうかしら?


文化の衝突から生まれた狂乱の時代

2025-03-28 20:59:00 | 近代
木曜日は高校のクラブの時の同窓会でした。(漫研)
なぜか他校の人もいます。
高校生の時からこの7人でした。

同期7人が揃って、寺田町駅近くのSさん宅に集まりました。

今回のお話しの中心は
奈良のとあるコンビニで仕事しているMさんでした。

インバンウンド客が多くてたいへんだという話しをしてくれました。

なんでも「レンジで温めて。」という人がいて、お弁当やおにぎり、かつサンドまではレンジ。

わかるけれど、フルーツサンドを温めてくれというのには「まいった!」そうです。

ある時、新人くんの所に、プラパック入りのサンドイッチを温めてくれというので何も考えずにその新人くん、温めてしまいました。

サンドイッチがブラごと潰されてぺったんこに…。
「これ食べられますか?」と聞いて来たので新人くん「食べられると思います。」と返したそうです。

Sさん、その時に気づいたそうですが、自分のレジが忙しくて『見てない、見てない。』とスルーしたそうです。

極め付きはアイスクリームを温めてくれというもの。
「No!」「No!」
と身振りで断るけれどなかなか納得されなくてたいへんだったです。

それとか、なんでも「TAX Free」にしてくださいという人。

その場で食べるものにはできないと言うのを伝えるのも「No!」と身振りで乗り切るそうです。

女子高生の時からヴァイタリティのある人でしたが、まだまだ枯れたりせずにバリバリでした。

他にもピアノを初めた人、眼科助手で頑張っている人、野菜を作っている人、同窓生もいろいろでした。

持ち寄りの昼食会でいつまでもしゃべっていられます。
おしゃべりをしていると楽しくて、あっという間に6時間位経っていました。

次は7月位に会うと思います。

ジョージ・ガーシュウィンGeorge Gershwin
(1893-1937年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン生まれ、カリフォルニア州ロサンゼルス没

東欧系ユダヤ人の移民の子として生まれました。
父親はロシア、母親はベラルーシからの移民です。

交響曲『パリのアメリカ人』
ニューヨーク・フィルの委嘱を受けて1928年に発表されました。

1920年代にガーシュウィンがパリで過ごした「狂乱の時代」を表現しています。


ポーランド パビリオン、国際装飾芸術および近代産業博覧会、パリ 1925
アネ・フォール(Années Folles 」「狂乱の時代」)は、1920年代のフランスにおける10年間のことです。

第1次世界大戦の後、抑制されない個人主義が広がります。
文学、音楽、絵画におけるダダイズムなどあらゆる分野から新しい芸術が生まれました。

パリ万博1725年
特にパリのナイトライフはアメリカ文化の影響を強く受けていました。

ジャズと呼ばれるラグタイムで、パリで非常に人気がありました。
アメリカ軍のバンドがパリにラグタイムを持込み、人気を博していました。

1926年、アフリカ系アメリカ人の国外在住歌手、ダンサー、エンターテイナーのジョセフィーヌ ベイカー(1906-1975年)

は、新しいレビュー「ラ・フォリー・デュ・ジュール」(パリにあるキャバレー・ミュージックホール)で、人工バナナの紐で作ったスカート以外はすべて露出した衣装を着て踊りました。


バナナの腰巻きだけを身につけたベイカーは、チャールストンのテンポで「野蛮なダンス」を挑発的に披露しました。

ジョゼフィーヌ・ベイカー、アネ・フォールの象徴的な人物
ベイカーはパートナーのジョー・アレックスとほとんど裸でこの曲を演じました。

ベイカーのダンスをめぐって勃発したスキャンダルは熱狂に変わり、パリジャンたちの間でジャズと黒人音楽への熱狂が急速に高まりました。

アネ・フォールは1929年株式の大暴落によって終わりました。

ガーシュインはこの交響曲の初演にあたり、パリのタクシー用のクラクションを4台アメリカ合衆国に持ち帰りました。

現在のタクシーホーン、ガーシュイン用に調律されて売られています。a、as1、b1、d2 但しガーシュインが意図してこの音程を用いていなかった可能性があります。
初演は1928年12月13日、カーネギーホール

においてウォルター・ダムロッシュ(1862-1950年)指揮

ニューヨーク・フィルの演奏により行われました。

初稿と改訂稿(フランク・キャンベル=ワトソンによる改訂版)があり、こんにち頻繁に演奏されるのは後者です。

レナード バーンスタイン指揮
ニューヨークフィルによる
ガーシュイン作曲 交響曲パリのアメリカ人 打楽器奏者が4つのクラクションを鳴らしています。


ガーデニングムーブメントとモーツァルト

2025-03-27 20:51:00 | 古典
木曜日午後、阪南ギターくらぶのギター北山浩二さんとバッハのフルートソナタBWV1035をうちで合わせる予定でしたが、体調を崩されて来られませんでした。

これに出演しますが、結局1回も合わせられませんでした。
ぜんそくがでたとか…。 
心配です。

みなさんもお身体お大事になさって下さいね。

同じ大阪府内ですが、阪南と枚方は離れていて遠いです。
電車で2時間位かかります。
名古屋行ったほうが早い。

当日主催の方が合わせるための部屋を取ってくれたので、なんとかなるでしょう。

黄梅



木瓜の花

金のなる木

急に空いたので庭仕事しました。
お天気がいいので日焼け止め塗ってやりました。

冬の間放っておいた、生え放題の雑草を抜きました。
写真はうちではなく、実家のお花。
うちでは、寒くて植えて無かったのでパンジーくらいしか咲いてなかった。
残念。

キュー・ガーデンズ (Kew Gardens) は、ロンドン南西部のキューにある王立植物園です。

バーム・ハウス
キュー植物園などとも呼ばれる。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有しています。
2003年世界遺産に認定されています。

キュー・ガーデンズの歴史はテュークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭を作ったことに始まります。

その後この庭はジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人であるオーガスタ妃(1719-1772年)

によって拡張され、ウィリアム・チェンバーズ(1773-1796年)

の設計による建築物が何棟か建てられました。

そのうちの1つである1761年建造のグレート・パゴダ

は今日も残されています。

ジョージ3世(1738-1820年)

はウィリアム・エイトン(1731-1793年)

やジョゼフ・バンクス(1743-1820年)

に命じてさらに庭園の植物を豊かなものにさせました。

旧キュー・パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチ・ハウスを買い上げて、王室の子供達を育てる施設としました。

ダッチハウス
この建物は現在キュー宮殿として残されています。

1840年に庭園は国立の植物園と改組された。ウィリアム・ジャクソン・フッカーの指揮のもとで植物園は30ヘクタールにまで拡張され、さらに後の改修で現在の120ヘクタールの敷地が完成しました。
勅使門

■キューの勅使門(天皇のお言葉を伝える使者だけが出入りする門)は、京都の西本願寺唐門を5分の4に縮小して複製したもので、1910年にロンドンで開催された日英博覧会に出展されたものです。

博覧会終了後解体され、キュー植物園に移築されました。周りを日本庭園に囲まれ、今ではキュー植物園の人気スポットの一つになっています。

■日本庭園

勅使門を中心とした面積約5,000㎡の庭園。庭園は3つの空間で構成され、全体構成は回遊式の枯山水庭園となっています。

「静寂の庭」茶庭の露地を思い出させる落ち着いた穏やかな雰囲気。

「躍動の庭」枯山水により滝、山、海洋等の雄大な自然風景を表現。

「調和の庭」上記の静と動を結びつける役割を担っている。

また、植物園には、1980年(昭和55年)に公益財団法人日本花の会から贈られた松前系の八重桜53本が植樹されています。

また1993年(平成5年)には、多くの松前系の八重桜を生み出した浅利政俊

から58品種の桜がウィンザー大公園と共に贈られて植樹され、このうち56品種が活着しています。

そしてキューガーデンやウィンザー大公園が起点となって、これらの桜がイギリス各地に広まっています。

これらの品種のうちベニユタカ(紅豊



やリュウウンインベニヤエザクラ(龍雲院紅八重桜)

など19品種は王立園芸協会のガーデン・メリット賞に選ばれています。

1764年、春。モーツァルト一家はザルツブルグを離れロンドンへと旅立ちました。

4月23日、8歳のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは父レオポルト、母アンナ・マリア、姉マリア・アンナ(ナンネル)と共にドーヴァー海峡を越えた後、馬車でロンドンに到着しました。

父レオポルドはザルツブルグ宮廷楽団の一員として活躍していましたが、ヴォルフガングのマネージャーとなりウィーン、パリ、ロンドンへ演奏に連れて行っていたのです。

ロンドンへの訪問もモーツァルト兄妹を音楽の神童として公演や私的なパトロンに紹介するという野心的なヨーロッパツアーの一環でした。

モーツァルト一家のロンドンの滞在はトータル15ヶ月に及ぶ長期間でした。

複数の演奏会を行い、大きな成功を収めました。

特に、6月5日にセントジェームスパークのスプリングガーデンズ

で開催された音楽会で、彼らは3時間で100ギニーもの収入を得ました。

6月29日にはロンドンの西側チェルシーのラニラ・ガーデンズのホール

「ラニラ庭園は決して大きなものではないが芸術的に作られている。毎週月、水、金曜に照明が灯される。ここにびっくりするほど大きな一階建ての円形ホールがあり、その中は数えきれないほどたくさんの吊りさげ灯、ランプ、壁かけ灯などで照らされている。一方の側で音楽が階段状にならんだ席から演奏され、最上部にオルガンがある。7時から10時まで3時間音楽は続く。それから1時間かしばしばそれ以上、つまり11時から12時まで、ヴァルトホルン、クラリネット、ファゴットなどの四重奏が行われる。」(人間と音楽の歴史・音楽之友社)レオボルドの手紙より
でも音楽会があり、自作の曲をオルガンやハープシコードで演奏しました。

その後も多くの演奏会を開き、ロンドンで名声を不動のものにし、たくさんのファンを惹きつけることになりました。

1765年の7月には、大英博物館

を訪問した一家は、ヴォルフガングが父の助けを借りて作曲した最初の宗教音楽作品であり、唯一の英語テキストの作品「神は我らの避難所」のコピーや、パリで出版された2組の鍵盤ソナタのコピーを共に預けました。

大英図書館

にとってモーツァルトは図書館に原稿を提供した最初の作曲家となりました。

モーツァルトはバッキンガム宮殿

に1764年の4月と5月の二度訪問し、1760年に即位した国王ジョージ三世(1728-1820)に拝謁しています。

そこではクリスティアン・バッハ(1735-1782年当時29歳)

が王妃シャーロット(1744-1818年)

の音楽教師をつとめていました。

モーツァルトは神童ぶりを発揮して一堂を驚愕させつつ、クリスティアン・バッハの作品を貪欲に吸収していきました。

ロンドンで作曲されたものに「ヴァイオリンまたはフルート(およびチェロ)の伴奏で演奏できるクラヴサンのための6つのソナタ」があります。

作曲の目的は(当時20歳の)英王妃シャーロット(Charlotte Sophie, 1744-1818)に献呈されています。

1765年1月に「作品3」として出版されました。
 変ロ長調 K.10、
 ト長調 K.11、
 イ長調 K.12、
 ヘ長調 K.13、   
 ハ長調 K.14、
 変ロ長調 K.15
は「ロンドン・ソナタ」と呼ばれています。

K.10ロンドンソナタ第1楽章



木に巻きつけてつくるケーキ

2025-03-26 22:29:00 | ルネッサンス
近所の木蓮が咲いています。
本当に暖かくなりました。
私がコンサートにでている間に、先月の雪の日にぶつけた車を売り払って、
新しい車が来ました。

しかも、私がいない間に夫と次男、母も乗せて滋賀方面にドライブ。

どここれ?

ラ・コリーナ

ここで作りたての

バウムクーヘンを食べてきたらしい。
私、行ったことない。
仕方ないけど…ちょっとうらやましい。

お土産買ってきてくれました。
やっぱりバウムクーヘン。

バウムクーヘン(Baumkuchen)、
バウム 木
クーヘン ケーキ

は、中心に穴があり断面に樹木の年輪のような同心円状の模様が浮き出たドイツのケーキです。

ドイツのバウムクーヘン

原型は紀元前のギリシアまでさかのぼり、木の棒にパン生地を巻きつけて焼いたオベリアスというものであると考えられています。

中世ポーランド=リトアニア連合伝統のシャコティス
14世紀、ポーランド王国とリトアニア大公国の間で交わされた条約(クレヴォの合同)

1385年8月14日にクレヴァ(Kreva)で調印された文書
によりズーキヤ地方出身(ヴィリニュス出身)のヨガイラ(ポーランド王としてはヴワディスワフ2世ヤギェウォ)(1348-1434年)

がポーランド王国の共同君主となるためポーランド女王ヤドヴィガ(1374-1399年)

のもとに婿入りした時、その披露宴で出身地の郷土菓子として振舞われ、それがきっかけでポーランド・リトアニア同君連合
の全ての地方に広く知られるようになったと言われています。

この時、この菓子を作った職人はその褒美としてもらった指輪で恋人に求婚してその心を射止めた為、特に結婚式では欠かせない菓子となっています。

これを基にした説、あるいは「ガトー・ア・ラ・ブロッシュGateau a la broche」(フランス語で「串に付いたお菓子」という意味)

を基にした説が存在しており、ドイツのザクセン=アンハルト州で元祖をめぐる争いがありました。
1920年に両店は同一人物に買い取られています。

ドイツ東部地域、とくにドレスデン、コトブス、ザルツヴェーデルはいずれもドイツのバウムクーヘンの本場で、ザルツウェーデル式バウムクーヘンは2010年にEUの原産地名称保護認証を受けました。

日本では第一次世界大戦の捕虜として来日したドイツ人の菓子職人カール・ユーハイム(1865-1945年)

によって持ち込まれ、1919年(大正8年)3月4日に広島物産陳列館
(後の原爆ドーム)

で開催されたドイツ作品展示即売会において販売されたのが最初だそうです。

このことを記念して、毎年3月4日は「バウムクーヘンの日」と決められているます。

カールは第一次大戦後日本で菓子店を開き、当時はピラミッドケーキという名前で販売されていました。
それが1960年代からバウムクーヘンの名で知られるようになりました。

彼の事業を継承する株式会社ユーハイムは、現在も売上300億円の2割程度を占める主力商品としてバウムクーヘンの製造を続けています。

兵庫県神戸市ユーハイム

ユーハイムのバウムクーヘン
そのほか、小規模ながら人気を集める専門メーカー、袋菓子として廉価に全国販売を行うメーカーも多く、日本におけるバウムクーヘンはドイツをしのぐ一般的な普及をみています。

ドイツでは、二度の世界大戦の影響などで職人による技術継承ができず廃れてしまった地域も多いそうです。

実際にコトブスでは伝統的な製法の再現ができず、再現のためにユーハイムの指導を仰いそうです。

左からオーストリア - プリューゲルクラプフェン、(Prügelkrapfen)

ルクセンブルク - バームクーフ(Baamkuch)

スウェーデン - スペッテカカ(Spettekaka)

チェコ、スロバキア - トゥルデルニーク(Trdelník)

ハンガリー - クルトシュ(Kürtős kalács)

ポーランド - 地域特有のシャコティス(Šakotis)であるセンカチュ(Sękacz)

リトアニア - 同じくシャコティス。

セバスティアン・フェルシュティナ( 1480年頃 - 1490年頃 ? - 1543年以降)ポーランド王国フェルシュティン(現在のウクライナ、スケリウカ)生まれ

は、ポーランドの作曲家、音楽理論家であり、 16世紀初頭の最も偉大なポーランドの作曲家。

1507年にクラクフ大学 
1364 年の大学設立を描いたヤン・マテイコ(1838–1893)の絵画
に入学しました。
これは同郷の作曲家ミコワイ・ツェ・フザノヴァと同じでした。
在学中、1509年まで音楽と神学を学びました。

クラクフ滞在中にドイツの作曲家ハインリヒ・フィンクに師事した可能性もあります。

卒業後、フェルシュティンに戻り、牧師 となりました。

その後、ポーランド南東部のサノクに行き、そこで司祭を務めました。

セバスチャンの楽曲のうち、3曲のモテットが現存しています。

いずれも1522年に作曲されました。4声部構成で、長音符の平唱テノールが用いられているが、これは出版当時としては古風な手法です。

他の声部は模倣や自由対位法、よりホモフォニックなテクスチャーで演奏することもあります。

3曲とも写本として保存されており、現在はヴァヴェル大聖堂に所蔵されています。

様式は古風ですが、フランドル楽派の影響が見られ、ポーランドにおける4声ポリフォニーの珍しい初期の例です。

セバスティアヌスは1522年にクラクフで賛美歌集『Aliquot hymni ecclesiastici』を出版しましたが、写本は現存していません。

彼の理論的な論文は記譜法と聖歌に関するものです。

彼の最も人気があったのは『Opusculum musices』( 1519年頃)で、これはポーランドで初めて理論的な論文が出版されてから5年後にクラクフで出版されました。歌手のための指導書と思われます。
彼は『Directiones musicae ad cathedralis ecclesiae Premisliensis usum』 (1544年)と聖アウグスティヌスの『De Musica』の版を著しました。何度も再版されました。

モテット(声楽曲)が3曲残されています。
その中の一曲

アヴェ・マリア
アレルヤ 聖母マリア、あなたは幸せです、そしてあらゆる賞賛に値します。
なぜならあなたから正義の太陽、私たちの神キリストが生まれたからです。












「考え」という名前の音楽

2025-03-25 21:01:00 | 国民楽派
大阪駅で日曜日に見たマーク「雷鳥」サンダーバードでした。
この電車は福井県敦賀まで行きます。

うまく撮れました。
鉄オタではありませんが、電車が来たら、テンション上がってつい撮ってしまいます。
電車好きの夫と男の子2人と暮らすとこうなります。

子どもは何気ないことでも飛び上がって喜びます。
あの時の喜ぶ顔を思い出すとやめられません。
今は子どもたち、よほどのレアでないとすましていますが…。

幸福になるのは簡単です。
なんでもないこと、簡単で、そう特別でないことに喜びを見出すこと。

人生複雑にし過ぎてはいけません。
子どもはそんなことを教えてくれました。

音楽もいろいろこのブログで背景を書いていますが、何にも考えずにただたた音楽を聴いて自分の感覚で楽しむのも素晴らしいと思います。

いろいろな音楽の背景を調べていて思うのは、作曲家の日々の生活の中で体験した感動、喜び、悲しみ、苦しみ、怒りを音楽に昇華していること、その感動は今も変わらない。

なので現在に生きる私たちも未だに音楽を聴いて感動するんだなぁと、思います。

さて、ドヴォルザークは鉄道好きで知られています。

彼が4歳ごろの1845年、ウィーンからプラハ、ドレスデンを結ぶ鉄道が開通しました。

この列車はドボルジャークの地元を通っていて彼は鉄道に夢中になりました。

音楽学校に通うためプラハに移ってからは、学校そばではなく、「列車の音が聞こえるところ限定」で下宿を探しました。

暇さえあれば駅に行き、機関車の型番、スペック、時刻などを詳細にメモし、なんなら駅員や運転士の名前まで記録していました。

ある時、機関車の走行音とリズムに違和感を覚えたドボルジャークは駅員に「機関車の走る音がいつもと少し違う。どこかおかしいんだよ。今すぐ止めて調べるべきだ、音楽家の耳を信用しろ!」と駅員に迫ったとのこと。この時本当に機械に不具合があったという…噂が残っています。

アメリカに行った時には、ホームシックで落ち込んだ彼はアメリカの機関車に救われていたようです。

「アメリカの鉄道の音は全然地元のチェコの列車と違う。
レールの幅も違うから。」と鉄道を見にいくドボルジャーク。

大好きな鉄道の音をモチーフに作曲しました、交響曲第9番「新世界より」などなど
そのことは前に書いたので、彼の愛した故郷の音楽のこと。

アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク: Antonín Leopold Dvořák )]1841-1904年)
オーストリア帝国ネラフォゼベス生まれ、オーストリア・ハンガリー帝国プラハ没

1891年ピアノ三重奏曲第4番ホ短調作品90 、 B.166 (副題 の「ドゥムキー」からドゥムキー三重奏曲とも呼ばれる)は、アントニン・ドヴォルザークによるピアノ、ヴァイオリン、チェロのための作品で、最もよく知られた作品の一つです。

1891年2月12日に三重奏曲を完成させました。

初演は1891年4月11日にプラハで行われ、ヴァイオリンのフェルディナント・ラハナー、チェロのハヌシュ・ヴィハン

、そしてドヴォルザーク自身のピアノによって行われました。

その夜、プラハのカレル大学

カロリヌム– 14世紀に建てられたカレル大学最古の建物
は作曲者に名誉博士号を授与しました。

この作品は大変好評で、ドヴォルザークはアメリカに渡り、ニューヨークのアメリカ国立音楽院

西25番街47-49番地にあるアメリカ国立音楽院(ジャネット・マイヤーズ・サーバー校)のファサード
の校長を務める直前、モラヴィアとボヘミアを巡る40回のコンサートのさよならツアーでこの曲を演奏しました。

三重奏曲はドヴォルザークがアメリカ滞在中に出版され、友人のヨハネス・ブラームス(1837-1897年)

が校正しました。

ピアノ三重曲第4番の副題「ドゥムキー」は

ドゥムカ(直訳は「考え」という意味でスラヴ(特にウクライナ)の叙事詩バラード…一般的に思慮深く、憂鬱な性格)の複数形です。

もともとは、叙事詩的なバラード、特に捕虜の歌や嘆きを指す、ドゥマ(複数形はドゥミ)という用語の縮小形でした。

19世紀に、他のスラヴ諸国の作曲家たちは、陽気なセクションが散りばめられた陰鬱で内省的な作品を示すために、古典的な形式としてドゥマを使い始めました。

ドヴォルザークは、無伴奏ピアノのためのドゥムカ作品35、スラヴ舞曲第2番、弦楽六重奏曲、ピアノ五重奏曲作品81など、他のいくつかの作品でもドゥムカ形式を使用しました。

1.Lento maestoso — アレグロ準ドッピオ楽章(ホ短調 – ホ長調)

2.ポコ・アダージョ — ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポ — ヴィヴァーチェ(C ♯マイナー)

3.アンダンテ — ヴィヴァーチェ・ノン・トロッポ — アレグレット(イ長調 – イ短調 – イ長調)

4.アンダンテ・モデラート — アレグレット・スケルツァンド — マルシアの準テンポ(ニ短調 – ニ長調)

5.アレグロ(ホ長調– ホ短調)
レント・マエストーソ(ハ短調 – ハ長調)


 







モーツァルトの友だち再び

2025-03-24 20:59:00 | 古典
日曜日は高校の同窓会でした。
何年も開いてなかったので本当にお久しぶりでした。
お昼に西梅田の「うおまん」をとってくれました。


私は高校生の時にぼうっとしてたので(今も!)覚えているか心配でしたが、会って話しているといろいろ思い出してきて大丈夫でした。

「担任の先生、瞬間湯沸かし器みたいだったねぇ!」とか「〇〇先生にカバンの形が少し違うだけで叱られたよ。」とか「〇〇先生、すぐに怒るから嫌だったけど、また切れられたらみんなと話しできなくなるから、仕方なく傍に座って話しを聞いていたんだ。」とか今だから言える話しが出て、「そうそう!」とか、「そうだったんだ〜。」とか言う話しで盛り上がって、とってもおもしろかった。

「また、会おうね。」と約束して帰りました。

ヨーゼフ・ロイトゲープ(Joseph Leutgebe 1732- 1811年)
ハプスブルク帝国ノイレルフェンフェルト生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

その幼少期についてはあまり分かっていません。

カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ(1739 - 1799年)

が、
ロイトゲープは1750年代のはじめの頃にウィーンでヒルトブルクハウゼン公爵

1727-1780年
のために演奏したという記述があります。

1760年代にはロイトゲープのキャリアが花開きます。

「彼は「ウィーンで最も卓越したホルン独奏者で、あらゆるソロ奏者の中でも広く受け入れられていることにかけては指折りの存在だった」
ーダニエル・ハーツ

1761年11月21日から1763年1月28日までの期間に、ブルク劇場

で、レオポルト・ホフマン、ミヒャエル・ハイドン、ディッタースドルフの協奏曲を演奏したという記録が残されています。

1762年にフランツ・ヨーゼフ・ハイドン

がロイトゲープのためにホルン協奏曲第1番 Hob. VIId/3Dを作曲しています。

1763年7月3日にハイドンの妻がロイトゲープの娘マリア・アンナ・アポローニアの名親になっていることから、両名は友人同士だったと思われます。
最近になって、ハイドンのホルン協奏曲の自筆譜にロイトゲープのサイン書かれていることなわかりました。

1763年2月には当時ハイドンが率いていたエステルハージ家の楽団に一時入団しています。

エステルハージ城オーストリア

ハイドンザール
ロイトゲープは「高い年俸」を得ていましたが、わずか1か月で離職しています。
がその理由はわかっていません。

その年ザルツブルクへ移ると、同市を治めていた大司教の楽団

ジェローム・ヨーゼフ・フランツ・デ・パウラ大司教、コロレド=ヴァルゼーおよびメルス伯爵(1732−1812年)

に加入しました。 

これによりレオポルト・モーツァルト(1719−1787年)
1765年
や、その後同年の内にコンサートマスターのミヒャエル・ハイドン(ハイドンの弟)(1737-1806年)

と同僚になりました。
その時に7歳のヴォルフガングとも友だちになりました。

6歳のヴォルフガング

1763年8月20日)には、ヴォルフガングがレオポルトに会えなくて寂しいと言った人々のリストが掲載されていて、そこに彼の名前も書かれています。

ヴォルフガングも最終的に宮廷楽団に雇われることになり、ロイドゲープの仕事仲間になりました。

レオポルトやヴォルフガングと同じく、ロイトゲープも度々休暇を願い出て他の都市、パリ、ウィーン、フランクフルト、イタリアの諸都市へ演奏旅行に出かけていました。

1773年2月にはこの3人で連れ立ってイタリアへ赴いています。

ミラノではヴォルフガングとレオポルトがザルツブルクの家に宛ててロイトゲープの評判を書き送っていて、彼の大きな成功を予言しています。

1777年にウィーンに戻り、レオポルトに借金をしてアルトレルヒェンフェルトに小さな家を購入しました。

1782年、やはりウィーンに移ったヴォルフガングはレオポルトに宛ててロイドゲープの借金について書いています。

「哀れなロイトゲープに少し辛抱してあげてください。もし彼の状況を知り、彼がどうやってやりくりしているかを見れば、きっと同情するでしょう。

私は彼と少し話をしなければなりませんが、いずれにせよ分割で払ってくれるものと確信しています。」

ウィーンでもホルン奏者として活動を続けましたが、1792年に演奏から身を引いてしまいます。

ロイトゲープはウィーンで生涯を閉じました。

ロイトゲープはモーツァルトお気に入りのホルン奏者でした。

数多くの作品が彼のために書かれています。

ホルン協奏曲 K417、K495、K412/386b(514)

「おそらく」ホルン五重奏曲 K407/386c

も該当すると言われています。

これらは1781年にモーツァルトがウィーンに住んでいた時期の楽曲です。

上記作品はナチュラル・ホルン
バルブの付いてないホルン
を想定して書かれています。

したがって半音階を演奏するためにロイトゲープは高度な口唇のコントロールを行い、並びにゲシュトップフトを駆使する必要がありました。

モーツァルトがロイトゲープと冗談交じりの関係性でした。

K417の献辞には

「ヴォルフガング・アマデ・モーツァルトがロバ、牡牛、馬鹿のロイトゲープを憐れんで、ウィーンにて、1783年3月27日」

と書かれています。

ある個所では管弦楽パートをアレグロとする一方で独奏パートをアダージョと指定しています。

これはおそらくホルンの音が遅れて出てテンポを引きずることをからかっているとみられています。

その他の例としてはホルン協奏曲第1番があります。

モーツァルト晩年の手紙からはロイトゲープがからかいを意に介さず、2人が良好な友人関係を持っていたことが窺えます。

1791年6月6日にモーツァルトがしたためた手紙には、妻のコンスタンツェが留守にする間、

「[メイドの]レオノーレを解雇してしまったので家に独りぼっちでいることになったでしょうが、それは愉快なものではなかったでしょうから」

と彼がロイトゲープの許に数泊したと書かれています。

その後、オペラ『魔笛』

2006 年のニュージーランド オペラ作品で、パミーナ (ティファニー スペイト) とパパゲーノ (リチャード ブルクハルト) が「幸せな人生を」を歌う
の初演が大きな成功を収め、モーツァルトは何度も友人や親戚を公演に連れて行きました。

ある手紙(10月8-9日)には「ロイトゲープが私に2回目に連れて行ってくれとせがむので、そうしてやりました」と記されています。

パリでのロイトゲープの演奏に関するある紙面講評(「Mercure de France」)は、彼が優れた演奏家であると述べています。
評者はロイトゲープが「上等な才能」を有し、「この上なく芳醇で興味深く、正確な歌唱と同じくらい完璧にアダージョを歌う」能力を有しているとしています。

モーツァルト ホルン協奏曲第2番K.417
1783年作曲
第1楽章 アレグロ・マエストーソ、変ホ長調、4分の4拍子。

第2楽章 アンダンテ、変ロ長調、8分の3拍子。

第3楽章 ロンド:アレグロ、変ホ長調、8分の6拍子。

この曲に「ろば・牡牛・馬鹿のロイトゲープを憐れんで」と書かれています。



花の組曲

2025-03-23 21:01:00 | ロマン派
土曜日夕方ドルチェミュージックアカデミーのコンサートでした。
実家からでましたが、暖かくなってすっかり春の陽気でした。

木瓜の花

いつもはピアノをお願いするのですが、今回はギターの渡邊信行さんにお願いしました。

曲はレニャーニ作曲フルートとギターのための「グランド デュオ協奏曲」第1楽章と第3楽章。

渡邊さんの伴奏はとっても楽しいです。

譜面を追うだけでなく、いろいろ仕掛けてきます。

私もおもしろくなって、仕掛けます。するとなんとなくわかって乗ってきます。

乗りあって、ちょっとスピード違反…やばい!
けどなんとかしてくれます。
今回も少し違反気味てしたが、なんとかうまくいきました。



終演後、2人で打上げ、勢いで5月10日伝説のギター居酒屋「グラナダ」の後継「クラベリト」で演奏されるのにご一緒することになりました。
しかも今度は第2楽章もやって全曲。
絶対に楽しいこと間違いなし!

クラベリト

クラベリトはスペイン語でclaberit「かわいいカーネーション」という意味だそうです。

ジャン シベリウス (1865−1957年)フィンランド ハメーリンナ生まれ、フィンランド ヤルヴェンパー没

1918年
5つの小品「花の組曲」『5つの小品』(Cinq Morceaux) 作品85は、1916年から1917年にかけて書いたピアノ曲集です。

『5つの小品』は、 5つの小品のタイトルが共通のテーマを持っていることから、 通称「花」と呼ばれることが多いです。


第1曲 デイジーと訳されていますが、フィンランド語kaunokkiは矢車菊のことです。

第2曲 カーネーション Neilikka

第3曲 イリスIiris


第4曲 コロンバインはオダマキ属の総称のようですが、フィンランド語の Akileija はやはりオダマキのことでしょう。

第5曲 カンパニュラKellokukka


クラベリトにちなんで今回は
第2曲:カーネーション


川の街

2025-03-22 20:58:00 | ロマン派
3月21日午後から眼科にいきました。
藤森駅の疎水の水、多めです。
こんな感じでも京都の人は平気です。

目の経過良くありません。5月に悪かったら、注射すると言われました。

確かに、術後あまり良くなった気はしません。

先週風邪ひいて、寝ていたのも良くなかったかも…(寝てられなくてマスタークラスやコンサートやら出かけた〜。)
おかげさまでようやく治ってきましたが、目の調子はイマイチ〜。
そういう明日もドルチェ楽器でアカデミーのコンサートに出ます。

注射はやだなぁ。

サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar, 1st Baronet, OM, GCVO、1857- 1934年)
イギリス イングランド ロウアーブロードヒース生まれ、イギリス イングランド ウスター没

1920年
セヴァーン組曲』または『セヴァーン川組曲』(The Severn Suite)作品87は彼が晩年の1930年に作曲したブラス・バンドのための作品です。

オーケストラ用にも編曲されました。
ジョージ・バーナード・ショーに献呈されています。

セヴァーン川は、ウェールズからエルガーの故郷であるイングランド西部にかけてを流れる、イギリス最長の川のことです。


クリスタル・パレス
水晶宮
で行われたナショナル・ブラス・バンド・チャンピオンシップの課題曲として作曲された委嘱作品です。

習作時代に書き留めていた主題を用いて作曲されていて、1870年代に作曲した木管五重奏のための小品も転用されています。

エルガーが書いたのはピアノ・スコアまでで、ブラス・バンドのためのスコアはヘンリー・ギール(Henry Geehl)(1881 - 1961年)によって完成されました。

このブラス・バンド版は1930年9月にクリスタル・パレスで初演されました。

1851年ロンドン万国博覧会の水晶宮
その後エルガーは、この作品を自らオーケストラのために編曲しました。
この編曲でブラス・バンド版の変ロ長調からピアノ・スコアどおりのハ長調に変更されました。

このオーケストラ版は1933年にウスター音楽祭
クラシック作曲家のエドワード・エルガー卿はウスターシャー、ブロードヒースのこの家で生まれました。現在ではエルガー生誕地博物館として使われています。
でエルガー自身の指揮によって公的な初演が行われましたが、前年の1932年3月にエルガーの指揮でレコーディングされています。

ピアノ・スコアは長く行方不明となっていましたが、1980年に発見されました。

また、1995年にはエルガーの自筆によるブラス・バンド版のフル・スコアも世に出ることになりました。

エルガーは1929年から故郷の近くの都市ウスターに移り住んでいましたが、これらの標題はウスターの建築物や歴史にちなんでいます。

ウスター

セヴァーン川組曲 作品87
1.ウスター城(序奏) Worcester Castle (Introduction)


2.槍試合(トッカータ) Tournament (Toccata)

3.大聖堂(フーガ)
The Cathedral (Fugu

ウスター大聖堂
4.騎士領にて(メヌエット)
In the Commandery (Menuet)

5.終曲 Coda    
ブラスバンド版








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