goo blog サービス終了のお知らせ 

音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 [email protected]

ビーフシチューで追悼コンサート

2025-03-21 21:00:00 | 現代
3月20日は萩原天神駅

近くの「いつもの処」で昨年3月に亡くなった池上敏先生の追悼コンサートでした。

生前池上先生は金重美代さん主宰の「いつもの処」でのコンサートによく参加されていました。
新年会コンサートでは、ビンゴゲームをして当たった人に曲を進呈するということをされました。

アマチュアの愛好家にあった曲。
リコーダーの真鍋ご夫妻に、名前をアルファベット読みにして、それを織り込んだリコーダー2本とギターのための曲。

などをくださって。当時やはりビンゴに当たった金重さんはフルートカルテットを所望しました。

会の最後には金重さんがふるまったビーフシチューの残りを鍋ごと抱えて帰られたそうです。

今日はその池上敏先生お気に入りのビーフシチューを金重さんが作って置いてくれ、演奏の後みんなでビーフシチューをいただきました。

その後何年か経ち、私と金重さんと木村直子先生、雅雄先生とフルートカルテットレッスンをしていると聞いた池上先生。

意欲が湧いてこられたようで、ある日金重さんに完成した第2楽章を渡されたそうです。

第1楽章、第3楽章は途中まで.
その時、Facebookで繋がっていた私に長文のメッセージを下さいました。

2021年7月21日
良いかも〜ッ!(笑)❣ 目標は金重さんが「フルートパートもヴィオラパートも、どっちもやりたい〜ッ!」と悩んじゃうような曲を書くことです。←、悪い人ですね〜ッ(笑)。 

2021年9月7日
「「夏休みの自由研究」ではないですが、先日投稿のページをソナタ形式の第1楽章に再構成、第2楽章はカンタービレ(もしくはもうちょっと小規模にカンティレーナ)を書いて、第3楽章は主題と変奏曲、というようなモーツァルトの匿名の不詳で不肖の弟子、または同時代の無名作曲家の作品くらいになるものが書けたらよいな、と思ってます。

ただ、第1楽章は多分6ベージから長くなる、或いはゆったり書くと8ページくらいに、第2楽章は短く短く3ページくらいに抑えたにしても、第3楽章・終曲は第1楽章と同程度、若しくはそれ以上が求められるだろうから、どう少なく見積もっても20ページくらいにはなりそう。ポケットスコアで20ページの室内楽は実は相当な大曲で、エライ構想を立てたかな、と少々後悔気味(嘘ピョン、笑ッ)。

 ただ、久々に藝大受験の頃に書いたきりで、自分の演習課題にもして来なかったような曲で、どれだけ良い曲が書けるか、を検証する良い機会だろう、と思ってます。
 まあ、実は他のご注文のアイディアにも手を付けたンですが、此方は意外にハードルが高くて頓挫しました(苦笑ッ)。

 ちょっと構想の全体像をご披露です。

       池上 敏 拝」

それを最後に、その後進まない。
重さんと甘党の池上先生に「ケーキを焼いて持って行ったら早く曲を作ってくれるかも!」などと失礼なことを言っていたのですが
その頃からどうも病まれていたようで、構想のままで終わってしまいました。
本当に残念なことでした。

その後もお付き合いは続き、
私のハーブは池上敏先生の仲介で神奈川の池上先生のお友だちから譲り受け、まさかそのような容体だとは思いもしませんでした。

音楽を通していつも温かく、飄々として、プロやアマチュア、上手い下手関係なく、水平にお付き合いされ、いろいろな贈り物をあちこちにされ、そのまま颯爽と去って逝かれたんだなぁ。と、今更ながら先生の残された余韻に浸っています。

池上 敏(いけがみ さとし、1949年 - 2024年3月4日)は、日本の作曲家、音楽教育研究者。

ギターの増井先生と池上敏先生

新潟県出身。
東京芸術大学音楽学部作曲科を卒業し、同大学院音楽研究科(修士課程)作曲専修を修了しました。

在学中、池内友次郎、矢代秋雄、永冨正之、松村禎三、間宮芳生、島岡譲に師事しました。

京都市立堀川高等学校(現在の京都市立京都堀川音楽高等学校)音楽科教諭、京都市立芸術大学音楽学部非常勤講師等を経て、山口大学教育学部教授を務めました。

フリーランスの作曲家として吹奏楽作品、室内楽作品を中心に作曲活動を展開しました。

山口大学名誉教授、(一般社団法人)日本作曲家協議会会員を務められました。

2024年3月4日午後0時24分、兵庫県西宮市の病院で間質性肺炎のため死去しました。74歳没。

1965年 - 東京都立大泉高等学校 入学
1968年 - 東京都立大泉高等学校 卒業
1970年 - 東京芸術大学音楽学部 入学
1974年 - 東京芸術大学音楽学部 卒業、同大学院 入学
1977年 - 東京芸術大学大学院 卒業

1971年度(昭和46年度) - JBA作曲賞(日本吹奏楽指導者協会) 瞑と舞

1972年度(昭和47年度) - JBA努力賞(日本吹奏楽指導者協会) 誦文

1978年度(昭和53年度) - 下谷賞(日本吹奏楽指導者協会) コンサート・マーチ '77

2024年(令和6年) - 叙位 正四位、叙勲 瑞宝中綬章

吹奏楽
瞑と舞(1971年度JBA作曲賞)[1995年改訂新版]

誦文(1972年度JBA努力賞)
コンサート・マーチ '77(1978年度下谷賞)

変容-断章(1984年度全日本吹奏楽コンクール課題曲 委嘱作品)

交響的二章(JFC(日本作曲家協議会)主催の「日本の作曲家2023」第1夜で演奏予定でしたが辞退)

室内楽
リコーダー四重奏による小組曲「四つの日本的情景」
コキリコ節(二重奏)
佐渡おけさ(二重奏)
小諸馬子唄(二重奏)
木曽節(二重奏)

Two pieces for Mandlin Orchestra(マンドリンオーケストラのための2つの小品)

1995年
瞑と舞(1971年度JBA作曲賞)[1995年改訂新版]


激しすぎる?友情

2025-03-20 20:55:00 | ロマン派
これな〜んだ?
水曜日の午後、ピアノのTさんが定期購入の卵を持ってきてくれました。
月1回。
おいしい卵をわけてくれます。
そのついでに2人でお茶を飲んで、お菓子を食べて、しゃべって。
「あら、もうこんな時間。」と帰る時になって
「あ、お金払うの忘れてた。」となります。
「じゃあ、さようなら。」
と車がでた後に台所に戻ると…卵ケースが!そう、卵ケースです。

2人とも忘れ物が増えました。
LINEでお知らせしたら、「来月まで置いておいてください。」

おそらく来月会ったら、この事を笑うことから始まります。


ジュゼッペ ヴェルディ(1813−1901年)フランス帝国タロ地区レ・ロンコーレ生まれ、イタリア王国ミラノ没

の23作目のオペラは歌劇「ドン・カルロ」。
原作はフリードリヒ・フォン・シラー(1759−1805年)


の戯曲『ドン・カルロス』(1787年作)。

1865年のオペラ座からの依頼は、1867年にパリ開催が決定していた万国博覧会


にあわせて上演するためのグランド・オペラでした。

オペラ座の運営方法などに不満をもっていたヴェルディは最初申し出を断わっていましたが、オペラ座総監督エミール・ペラン(1864年総監督就任)はヴェルディに様々な題材を辛抱強く提供して作曲を打診、結局ヴェルディはペランが候補に挙げていたひとつ『ドン・カルロス』の作曲に同意、1866年6月までの完成という条件で契約に応じました。
台本はベテラン作家フランソワ・ジョセフ・メリが手がけることに決まったが、メリは着手直後に病死してしまい、メリの秘書で、義理の息子でもあったカミーユ・デュ・ロクル( Camille du Locle、1832年-1903年)
右ロクル
が後を引き継いで台本を完成させました。

台本完成後、ヴェルディは自宅で作曲に励んだが、喉の病気の悪化などで完成が遅れて契約での期限に間に合わず、結局全曲の完成は1866年12月でした。

その後、初演に先立って、通し上演時間が約4時間に及ぶことがわかり、長すぎるということで結局ヴェルディは約20分の音楽をカットしています。

これらの出来事を経て『ドン・カルロス』は1867年3月11日、フランス皇帝ナポレオン3世夫妻
ナポレオン ボナボルトの弟の息子
を迎え、オペラ座にて初演を迎えたのだったが、ルイ ボナパルトの妻のウジェニー皇后(1826−1920年スペイン出身、熱心なカトリック信者と伝えられる)

が内容に不快感を示して途中で席を立ってしまったこともあり、初演は失敗に終わってしまい、この作品でもヴェルディがパリでの決定的成功を得ることはかなわなかった。(『イェルサレム』『十字軍のロンバルディア人』)、1855年に『シチリア島の夕べの祈り』フランス公演の失敗に続き)

ヴェルディがこの歌劇の作曲者として評価されるのは、3か月後のロンドン上演の成功まで待たねばなリませんでした。

1884年のミラノ・スカラ座での上演の際の描画
歌劇「ドン・カルロ」
【第1幕】
時は1560年頃、舞台はスペインのマドリード。スペインの王子ドン・カルロ
モデルとなったドン・カルロデアウストリア(1545−1568年)
は、フランスの王女エリザベッタ
やはりモデルのエリザベート・ド・ヴァロワまたはエリザベート・ド・フランス (1545−1568年)実際にカルロの父と結婚しました。実際にカルロと婚約していました。
と愛し合い婚約していました。

しかし、エリザベッタは政略によってカルロの父、つまりスペイン王のフィリッポ2世
フエリポ2世(1527−1598年)の3人目の妻がエリザベート、
と結婚してしまいました。

エリザベッタへの想いが忘れられないカルロを、親友のロドリーゴが励まします。
ロドリーゴは彼に、スペインの圧政に苦しむフランドルの救済に力を注ぐように言いました。

この当時、旧教カトリックのスペインは、新教徒プロテスタントの多いフランドル地方に弾圧を加えていたのです。



【第2幕】
王妃エリザベッタの女官のエボリ公女は、カルロのことを密かに愛していましたが、彼がまだエリザベッタのことを忘れられないということを知って、激しく嫉妬します。

その頃、大聖堂前の大広場では、異端者が火刑に処されるところでした。
民衆が国王フィリッポ2世を讃えていたとき、そこに王子カルロがフランドルの使節たちを連れて現れます。
そしてフランドルの救済を願い出ました。

しかし、国王は聞く耳を持ちません。
興奮して思わず剣を抜いたカルロは、反逆罪で捕らえられ牢に入れられてしまいました。
 
【第3幕】
国王フィリッポ2世自身も、王妃エリザベッタから本当に愛されていないことを感じ、孤独を嘆いていました。
そして、息子カルロの処遇にも悩んでいます。

エリザベッタが部屋に入ってきたとき、フィリッポ2世は、「(彼女の)宝石箱にカルロの肖像画が入っていた!」、と激怒して出ていきます。

実はエリザベッタの女官エボリ公女がこっそり宝石箱を盗み、国王に渡していたのです。

事の大きさに気付き良心の呵責を感じたエボリは、エリザベッタに罪を告白し、カルロの命を救うことで罪を償おうとします。

カルロの親友ロドリーゴも、彼の命を救おうとしています。
反逆者はカルロではなく自分だと告白。身代わりになったのです。

カルロの独房にやってきたロドリーゴは、フランドルの救済をカルロに託した後、殺されてしまいます。

このとき、カルロの解放を求めた民衆の暴動が起きます。
その騒ぎの隙にエボリがカルロを牢から逃がします。
 
【第4幕】
月夜の静かな修道院で、昔の幸せを思い出しながらエリザベッタが待っているところへ、カルロが現れます。

カルロはフランドルに密かに旅立つため、二人は永遠の別れを決意します。

そこへ、フィリッポ2世が現れ、カルロを捕らえようとします。
しかし、そこへ偉大なる先王カルロ5世の亡霊が出現し、不思議な力でカルロをいずこへと連れ去っていきました。

ジュセッペ・ヴェルディ 作曲オペラ「Don Carlo(ドン・カルロ)」より
「われらの胸に友情を」
”Dio, che nell'alma infondere”
MET2010 Roberto AlagnaとSimon Keenlyside
カルロ
君の忠告に従うよ、我が兄弟。

ロドリーゴ
お聞きください!
修道院の扉が開かれています;
フィリッポ王と王妃がおいでになる。

カルロ
エリザベッタ!

ロドリーゴ
私を頼りに、元気を取り戻してください、
あなたの星は再び空で輝くでありましょう!
天に強き者の勇気をお求めください!
二重唱
主よ、心に愛と希望を注いでくださる方、
心に自由への憧れの炎をともされる。

憧れの炎をともされる、
心に自由への憧れを。
我らは共に生き共に死ぬことを誓う。

ロドリーゴ
地にあっても、天にあっても・・・

二重唱
我らが一つに結ばれんことを、ああ!
よ、心に愛と希望を注いでくださる方、
心に自由への憧れの炎をともされる。
憧れの炎をともされる、
心に自由への憧れを。

ロドリーゴ
王と王妃がいらっしゃいます。

カルロ
ああ、恐ろしい。
彼女を見ると震える!

ロドリーゴ
しっかりしてください!

カルロ
彼女は彼の妻!
僕は彼女を失った!
僕は彼女を失った!
僕は彼女を失った!
彼女は彼の妻!ああ、神よ!

二重唱
私のところへおいでください、私と一緒におれば、心強くおられましょう、もっと強くなられます!
彼女は彼の妻、僕は彼女を失った、彼女は彼の妻!

ロドリーゴ
共に生きましょう

カルロ
共に生きよう

ロドリーゴ
そして共に死にましょう!

カルロ
そして共に死のう!

二重唱
最後の切なる願いは、

叫び、叫びだ:自由、と!:

ロドリーゴ
供に生きましょう

カルロ
共に生きよう

ロドリーゴ
そして共に死にましょう!

カルロ
そして共に死のう!

二重唱
最後の叫びは:自由!





聴き合い会で人気の曲

2025-03-19 21:00:00 | バロック
火曜日は第22回聴き合い会でした。
お互いの演奏を聴き合い、励まし合いましょう。と言うことでやっています。

トップ写真
ヴィオラの金重美代さん、ピアノの坂田恭子さんと「カルメン幻想曲」演奏しました。

後藤潤一さんコンクールを受けるそうです。素晴らしい演奏でした。



ビウエラの斎藤宗夫さん

フルートトラヴェルソの田中聖平さんと今川知恵子さん。
テレマンのフルートソナタを吹いてくれました。

これは角谷雅一さんの1800年だのフルート。

これでピアノ坂田恭子さんとマラン・マレの「組曲Gdur」の前奏曲を合奏しました。
私はこれ、

田中聖平さんが試奏しています。
パウエルの木管頭部管をいつものパウエルに刺して使いました。
それだけで金属のフルートの音が少しまろやかになります。 

これでバロックを吹くと少しバロックフルートに近づく気がします。

今回は池田から猪口薫さんがベートーヴェンの月光第一楽章で参加でした。

桶矢成智さん、アルハンブラ宮殿の思い出熱演でした。


角谷さんのサンキョウ プリマ
今は無い社名。ヴィンテージです。

ネット落札してご自分で治されました。
高音はいい感じ。低音は調整が要りますが、タンポはそう悪くなく1個変えただけだそうです。
すごいなぁ! 

こちらはトラヴェルソの2人とアウロスの樹脂製のトラヴェルソで即席トリオ。ボワモルティエの組曲。
斎藤宗夫さんのビウエラ。
美しい楽器です。音色も素朴で美しいです。

ギターの河塚智秀さん、バッハのヴァイオリンパルティータ全曲演奏を目指しています。
今回はだいぶ行きましたが、来月全曲弾くつもりだそうです。
とっても楽しみです。

今回も楽しかったです。
次は4月25日(金)12:15開場 13:00開演
牧野生涯学習センター 音楽室
第23回 聴き合い会
1人15分 協力金500円
みなさんもご参加いかがですか?

ド ヴィゼーはギターでもビウエラでも人気の作曲家で今回も何人かが演奏されました。
ド ヴィゼーとはどういう作曲家でしょう?
調べてみました。

ロベール ド ヴィゼー
(Robert de Visée, 1652-1730年)
フランス王国ラ・フレーシュ生まれ、フランス王国パリ没

フランスのテオルボ奏者
14コーステオルボ
ギター奏者、作曲家。

ルイ14世の宮廷音楽家として、テオルボやギターのほかリュート

ルネサンス期の8コーステナーリュート(レプリカ)
ヴィオールを奏し、歌手も務めました。

また、リュート、テオルボおよびギターのための曲を作曲しました。

ヴィオルと楽器の演奏者ロベール・ヴィゼーとフランソワーズ・パンゴーの長男でした。
彼は1662年に両親を亡くしました。

数年後、パリにでました。

彼は1673年10月29日にキャサリン・サーヴァント2世と結婚しました。彼女と少なくとも 3 人の子どもをもうけました。

息子の (ジャン) フランソワ (1674 年頃に生まれ、1747 年 2 月 3 日に死亡) は音楽家になりました。
娘たちは、「ヴィゼ女官の墓碑銘」 (ヴォードリー・ド・セズネの写本に写されている) に記されています。

ロベールはフランチェスコ・コルベッタ(1615-1681年作曲家、ギター奏者)

に師事したものと思われ、
1680年頃にルイ14世(1638 - 1715年)
の宮廷音楽家となりました。
1709年10月30日に「室内楽の常任カントル」の地位を得て、年俸600ポンドを得ました。

ロベール・ド・ヴィゼーが参加した宮廷演奏会については多くの記録が残っており、ギター、テオルボ、ヴィオールの才能は同時代の人々から高く評価されていました。

1709年には宮廷歌手としての記録もあります。

1719年には「王のギター教師」(maître de guitare du Roy)に指名されています。

ジャン・ジャック・ルソーは、ヴィゼーが宮廷でヴィオール
「ヴィオラ・ダ・ガンバ」「脚のヴィオラ」「ヴィオール」と呼ばれました。
も奏していたと記しています。

ヴィゼーは、『王に捧げるギターの書』(Livre de guitare dédié au roy, 1682年)

1682年王に捧げるギターの書 タブ譜
および『ギターのための曲集』(Livre de piéces pour la guitare, 1686年)

の2冊のギター曲集を出版し、ルイ14世に献呈しています。

これには合わせて12の組曲が収録されています。
また、テオルボおよびバロックリュートのための多くの組曲((大部分がセズネ手稿譜(Saizenay Ms.)に収録されています))そのほか、器楽合奏曲も作曲しています。

本来は通奏低音用としての役割が主であるテオルボに対して書かれました。

1717年、「テオルボとリュートのための組曲」Amollから前奏曲とアルマンド











愛とあこがれの6度

2025-03-18 21:00:00 | ロマン派
月曜日の夜はフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。

「煙が目にしみる」から練習でした。

「ちょっと思いついたんだ。」と榎田先生。
今までコンサートフルートやアルトやバスも全員で演奏していたところを何箇所かバスフルートだけですることにしました。
バスが4本に増えたらやれることが増えました。

これがとってもいい感じ。
そのままバスフルートで行くことになりました。
「俺前に言ったかな?」
「この煙が目にしみる。なんで煙が目にしみるんでしょうか?」

「涙を煙で隠してるからです。」

おおっ!大人の切なさ!

ドボルザークのセレナーデ
「最後の6度や7度の和音、わかりますか?」

これはね。ロマン派においてはあこがれを現す和音なんです。だから、何気なく吹いてはいけません。ビブラートをかけて」
「美しい曲なんですよ。この曲は。」

最後が「フィンガルの洞窟」
「対位法って知ってますか?」
「和声法が縦。対位法は横。」
「バッハとかクラッシック音楽の醍醐味です。」
「初めのところ上から1stが降りてきてバスが上に上がって行く。これの極致のような曲なんですよ。この曲は。」
と言うところですが、私たちの練習不足でなかなか上手くいきません。
例のごとく「また練習しておいて下さいよ。」と言うことで練習は終わりました。



愛と憧れの6度の曲。

ベートーベンの歌曲「君を愛す」のメロディの最初は、この6度の跳躍で始まります。

優しい愛 "君を愛す"(Zärtliche Liebe "Ich liebe dich", WoO 123)」


リストの有名な「愛の夢 第3番」という曲もメロディの始まりは6度になっています。
『愛の夢』(あいのゆめ、:独: Liebesträume)は、フランツ・リストが作曲した3曲から成るピアノ曲。サール番号541。「3つの夜想曲」(みっつのやそうきょく)という副題を持ちます。第3番は特に有名です。


ショパンの一番有名な「ノクターン第2番 作品9-2」もメロディは6度で開始されています。


意識的に使った例としてワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」。

一番最初に演奏される前奏曲はチェロパートだけで「ラ↑ファー」という6度の音程で全曲が開始されます。

許されない男女の愛がテーマとなっている曲に、この「6度の音程」が使われています。


クラリネット祭り

2025-03-17 21:08:00 | 近代
土曜日に行ったドルチェ楽器さんの3階に行ったらクラリネットフェアーでした。

アウェー感満載でしたが、「古い木管とかありますか?円錐管があればうれしいですが」
と聞いたら

ハンミッヒの木管出してくれました。
円錐管では無く円筒管。
そう古くはなく1980年頃。

木管のまろやかな音。
レスポンスも悪くありません。
E♭とEあたりを鳴らすのは少し工夫が要ります。
うっかり買いそうになりました。
予算不足で買えませんが…。
この管体はグラナディラ(アフリカン・ブラックウッド)で大体のクラリネットと同じ素材です。

クラリネットは、ドイツ・ニュルンベルクのヨハン・クリストフ・デンナー(1655ライプツィヒ - 1707年ニュルンベルク)

が、1700年頃にシャリュモー(仏: chalumeau)を改造して製作したのが始まりです。

シャリュモーはフランスの古楽器で、シングルリードの円筒形木管楽器で、18世紀の後半頃までオーケストラに使用されていたといわれています。

Klenig製作のシャリュモー(ストックホルム、1700年代初め) ※リードが付いていない状態
管体の太さはほぼ一定(円筒形)で、閉管なので、同じ長さの開管楽器よりも最低音が1オクターヴ低い。偶数倍音がほとんど発生しないので、音波の波形は矩形に近く、独特の音色をもっています。

本体は大きく4つに分割することができ、吹口の側からマウスピース、バレル(俵管)、管体、ベルと呼びます。


マウスピースには、リードがリガチャーによって固定されています。

単にクラリネットと言った場合はソプラノ・クラリネットを指し、変ロ調(B♭)管とイ調管(A)

向かって左がA管、右がB♭管です。
が一般的です。
両者は吹口の部分が共通なので、この部分だけを差し替えることもできるそうです。

ソプラノ・クラリネット以上の大きさのものでは、管体をさらに上部管(上管)と下部管(下管)に分割できるものが多いです。



クラリネットには同属楽器が多く、クラリネット属と総称する。音域を変えるために管の長さを変えたものであり、運指などはほとんど同じです。

1. Ab ソプラニーノ・クラリネット
2. Eb ソプラニーノ・クラリネット
3. D ソプラニーノ・クラリネット
4. C ソプラノ・クラリネット
5. Bb ソプラノ・クラリネット
6. A ソプラノ・クラリネット

7. Eb アルト・クラリネット
8. F バセット・ホルン
9. Bb バス・クラリネット
10. Eb コントラルト・クラリネット
11. Bb コントラバス・クラリネット

ハ調のソプラノ・クラリネット
以外は、移調楽器として扱われます。

同属の中のバセット・ホルン

は1770年頃にバイエルンのマイヤーホーファー (Mayerhofer) によって作られ、

バス・クラリネット

などの低い音域のクラリネットの原型は1838年頃にベルギーのアドルフ・サックス(Antoine Joseph Adolphe Sax, 1814- 1894年)

によって作られました。

ウージェニー ボザ(Eugène Joseph Bozza, 1905- 1991年)フランス ニース生まれ、フランス ヴァランシエンヌ没


ボザはニースにイタリア人とフランス人の両親の間に生まれ、幼少期からヴァイオリンを学んだ後、パリ音楽院でアンリ・ビュッセル、ジャック・イベールらに師事、作曲・指揮およびヴァイオリンを学びました。

彼の作品には5つの交響曲、オペラ「レオニーダス Leonidas」(1947年)、バレエ「海原の戯れ Jeux de plage」(1950年)、および多数の管楽アンサンブル曲があります。

1934年には、カンタータ「ルクマニの伝説 La légende de Roukmāni」でローマ大賞を受賞しました。

1939年にはパリ・オペラ=コミック座の指揮者をつとめ、1951年から引退する1975年までヴァランシエンヌにある国立音楽学校で校長を務めました。

1956年レジオン・ドヌール勲章受章。1991年にヴァランシエンヌで逝去。

楽譜出版社はほとんどがAlphonse Leduc社。一部Max Eschig社、Peters社などから出版されています。

ボザ作曲 クラリネット四重奏「ソナチネ」


工藤重典マスタークラス

2025-03-16 20:56:00 | レクチャー、マスタークラス
数日前、ドルチェ楽器さんからメッセンジャーで工藤重典先生のマスタークラス受けませんか?
と連絡いただき、土曜日午後から行ってきました。
ウォーミングアップの部屋が無く、仕方なく
14:00からなので部屋の前に待機して前の方が出てくるのを待っていたら、なかなかででこられません。
あれ?
14:00過ぎた。
と思って恐る恐るノックしてみたら、工藤先生先生お一人でニコニコ迎えて下さいました。
「どの曲をされますか?」
「タファネルのフランツェスカ ダ リミニを」
とスコアをお渡ししました。
花粉症で絶不調。
いきなり全曲通しました。
吹いた後にこやかに
「なかなかいいですよ!何か困っていること吹いてて辛くなるところとかありますか?」
と言われるので
「音量が出ないので…。」
「曲を聞いた感じではそんなことありませんよ。」
「オーケストラで」
「何を吹かれたの?」
「第九を」
「第九を全部の楽章?!すごいですね。」
「1stにしては音が小さいと言われました。」
「音は充分出ています。それより惹きつける音、大きく吹こうとすると音を潰してしまうので、吹きすぎないで、もっと強弱をつけるといいかもしれませんね。時に低音のビブラート。」
ということで見て頂きました。

初めの歌の部分はPから初めて息を吹きすぎないで、低音にもビブラートをかけてゆっくりクレッシェンドしてディミュニエンド。
だいだいの場合、クレッシェンドの場合Pで始めましょう。ディミュニエンドの場合はFで始めましょう。

速いパッセージはゆっくりテンポをとりながら練習しましょう。そうすると細かい違いがわかって自分で訂正できるので

付点の後の16分音符と8分音符はtu duと速く取りましょう。
tuでは遅くなります。
はっきりさせようとすると余計に遅くなるので、そんなに吹き込まない方がはまりやすくなります。
とにかくにこやかで穏やかな話し方をされる先生で、すっかりファンになってしまいました。

工藤重典先生
北海道札幌市西区生まれ。10歳のとき札幌交響楽団首席フルート奏者佐々木伸浩に出会い、レッスンを受ける。

北海道札幌月寒高等学校卒業後、桐朋学園大学ディプロマコースに進み、峰岸壮一に師事。

1975年、卒業を待たずにフランスへ留学(桐朋は中退)しパリ音楽院のランパルのクラスで学んだ。

1979年1月、フランスのリール国立管弦楽団(フランス語版)に入団し、首席フルート奏者となる。
1979年パリ音楽院修了。
1987年にリール国立管弦楽団を退団し、活動の比重をソロへ移すと共に、パリのエコール・ノルマル音楽院教授となる。

2004年までに、リサイタルを中心に40カ国180以上の都市で演奏した。オーケストラとの共演もNHK交響楽団をはじめ国内ほとんどの団体、および海外の30を越える主要な団体と行っている。CDの録音はソニー・クラシカル、ビクターエンタテインメントなどのレーベルで60種類以上があり、「ランパル&工藤重典/夢の共演」は1988年度文化庁芸術作品賞を受賞した。1997年、NHK教育テレビフルート講座「趣味悠々」の講師を務めた。

1983年からジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクール審査員。1987年から2009年までサイトウ・キネン・オーケストラ首席フルート奏者、1990年から水戸室内管弦楽団首席フルート奏者を務めている。

2013年3月、オーケストラ・アンサンブル金沢の特任首席奏者に就任。 KAJIMOTOより

エドアルド グリーグ
(1843- 1907年)スウェーデン ノルウェー ベルゲン生まれ、スウェーデン ベルゲン没

「朝」(Morgenstemning i ørkenen、直訳すると 「砂漠の朝の気分」)は、『ペール・ギュント』作品23の一部で、ヘンリック・イプセン(1828−1906年)

の戯曲「ペール・ギュント」
イプセンがペール・ギュントの原作とした民話の主人公、ペル・ギュント
の付随音楽として1875年に書かれました。

また『ペール・ギュント』組曲第1番作品46の4楽章のうちの第1楽章としても作曲されました。

この作品はイプセンの戯曲第4幕第4場における日の出を描いています。

この場面では、ペール・ギュントが仲間にヨットを奪われ、眠っている間にモロッコの砂漠に置き去りにされます。

この場面は次のような描写で始まっています。

「夜明け。アカシアとヤシの木。ペール(ギュント)は木の上で座り、もぎ取った枝を使って猿の群れから身を守っている。」

工藤重典先生の演奏で「朝」楽劇「ペール・ギュント」より



マトリョーシカ実は日本と関係あり

2025-03-15 21:00:00 | 国民楽派
何年か前に作ったマトリューシカ雛。
フェルトでチクチク刺しました。
今日も家にいます。

裏庭のパンジーも

暖かくなって伸び〜っとしています。
この前中国出張の時のお土産

なぜかロシアのお菓子。
長い国境を接しているからかなあ。

1800年代末期、E.G.サポジニコワ=マモントワ

が日本から「七福神」を 描いた入れ子人形

どれのことかわかりませんでしたがこんな感じ?
を持ち帰り、それがロシアの職人 にインスピレーションを与え、マトリョーシカ人形が発明されたました。

最初の人形は、1890年にV. P. ズヴェズドチキンとS. V. マリューチンによって作られ、「マトリョーナ」と呼ばれ、刺繍のシャツ、サラファン、エプロンを着て、色とりどりのスカーフを巻き、手に黒い雄鶏を持っている丸い顔の農民の少女で8人の入れ子でした。

黒い雄鶏を連れた少女の後に少年が続き、その後に再び少女が続きました。
人形はすべてそれぞれ異なっており、最後の8番目の人形には布で包まれた赤ちゃんが描かれていました。

1890年に玩具や土産物として大量生産が始まりました。

1900年、マトリョーシカはパリの国際手工芸品博覧会で初めて発表され、メダルを受賞しました。

が、同年始まった経済危機(1900−1903年)の状況下で、「児童教育」ワークショップは閉鎖され、その全品揃えはセルギエフ・ポサード市のゼムストヴォ教育・実演ワークショップに移されました。

その結果、木彫りが発達し、玩具職人の家族が住んでいたセルギエフ・ポサードがマトリョーシカ生産の中心地となりました。

1904年にパリからマトリョーシカ人形の大量注文があり、後に他国への輸出も始まりました。

1916年にロシアを訪れた日本の芸術家で教師の山本鼎
は、レフ・トルストイ


が設立した村の子供たちのための学校を訪問しました。
彼はロシアからロシアの玩具を持ち出し、長野県北部に産業を組織し、そこで「純日本製」の玩具を生産し販売し始めました。

1909年、N.V.ゴーゴリ

生誕100周年を記念して、『監察官』と『タラス・ブーリバ』の登場人物を描いたマトリョーシカ人形が制作されました。

1917年の革命以前、マトリョーシカ人形は「マトリョーナ」または「マトリョーシカ」と呼ばれていました。

この名前は最も一般的な女性の名前の 1 つであり、健康でふくよかな体型をした大家族の母親に関連付けられていました。

レオシュ・ヤナーチェク( Leoš Janáček 1854 - 1928年)オーストリア帝国モラヴィア生まれ、チェコスロバキア キアオストロヴァ没

1914年
は歌劇「タラス・ブーリバ」を書いていますが、1910年チェロとピアノのための「おとぎ話」を書いています。
1912年、1923年に改訂され1924年にフデブニー・マティス・ウメレツケー・ベセディ社から出版されました。

1924年版チェロ譜
ヴァシーリー・ジュコーフスキー(1783年 - 1852年)
1820年
の詩『皇帝ベレンデイの物語』
に基づいて作曲され、皇太子イワン(ロシア民話に登場する英雄)

が、許嫁である冥府の王女マリヤのもとに行って、結ばれるまでを題材としています。

明確なストーリーの筋には基づかなく、愛の雰囲気に満ちています。






みんな大好きキャベツとカブ

2025-03-14 21:00:00 | バロック
裏庭に植えた葉牡丹。
アブラナ科アブラナ属
ケール、キャベツの結球しない品種だそうです。

ケールの鎌倉時代中期または江戸時代前期に渡来しました。

現在見られるハボタンは、園芸ブームに沸いた、草本植物の斑入りなど葉変わりが珍重された江戸中期以降と見られています。

縁起のよい紅白二色が好まれたそうです。

当時、博物学者の山岡恭安による『本草正正譌』(1778年)

で牡丹菜、葉牡丹と記載されているのが文献上の初見とみられ、古典園芸植物(日本で育種、改良され、独自の発展を遂げた園芸植物)とも言われています。

明治以降は冬の園芸植物として広まる一方で海外に紹介され、戦後はさらに品種も増え、現在では世界各地で栽培されています。

食べられるそうですが、キャベツに比べて味が落ちるのと、園芸品種にするために農薬を使っている場合があるのでお勧めはしないそう。

菜の花のような花は咲きますが、観賞する人は少ないそうです。

クオドリベット(Quod libet)
ラテン語でQuod何でも libet喜ばせるという意味で
「好きなものをなんでも繋ぎ合わせた」
ヴォルフガング・シュメルツル(1505年頃 - 1564年)が1544年当時よく知られた曲、民謡を繋ぎ合わせた曲にこの名を使いました。
1618年には、クォドリベットの厳密な定義が発表されました。

ミカエル・プレトリウスは、クォドリベットを「宗教曲と世俗曲から引用した多様な要素の混合」と表現しました。

その頃流行っていたドイツ民謡「キャベツとカブ」という歌があります。

「お母さんが苦手なキャベツとかぶを使って料理したから今日は家に居場所がない」とか言う歌詞で地域によっていろいろあったそうです。

これを使った有名な曲にはJSバッハのゴールドベルク変奏曲最後の(30番目の)変奏曲はクォドリベットです。
そのことは以前書いたので、今回は別の人。

ジローラモ フレスコバルディ(1583-1643年)
フェラーラ公国フェラーラ生まれ、教皇領ローマ没

フェラーラで、有名な作曲家でオルガニストのルッツァスコ・ルッツァスキに学びます。

庇護者エンツォ・ベンティヴォーリョの援助で、1607年春に、ローマのサンタ・マリア・イン・トラステヴェーレ教会のオルガニストの座を射止めます。

同年、フランドルのローマ教皇庁大使に任命されたベンティヴォーリョに同伴してブリュッセルに旅行します。

1608年にローマに戻ってサン・ピエトロ大聖堂

サン・ピエトロ大聖堂を描いたヴィヴィアーノ・コダッツィによる1630年の絵画。《フィオーリ・ムジカーリ》を出版した時期のフレスコバルディが奉職していた

のオルガニストに就任しました。

1628年から1634年までフィレンツェのメディチ家宮廷オルガニストも務めます。

1685年出版されたオルガン曲集「音楽の花束」Fiori musicali

初版表紙
3曲のオルガン・ミサ曲と2曲の世俗的な奇想曲が収録されています。

フレスコバルディの最も偉大な作品と認められています。
少なくとも後代2世紀にわたって影響を及ぼしました。
中でもヨハン・ゼバスティアン・バッハは崇拝者の一人であり、ヨハン・ヨーゼフ・フックスは、影響力のきわめて高い理論書である名著『グラドゥス・アド・パルナッスム』(1725年)の中で取り上げ、これは19世紀になっても教材として活用されていました。

「音楽の花束」を作曲した頃ははローマ教皇ウルバヌス8世(1568 - 1644年)

とその甥フランチェスコ・バルベリーニ枢機卿の庇護の下、ローマのサン・ピエトロ大聖堂のオルガニストとして活動中でした。

そのためサン・マルコ寺院

のためか、または単に重要な教会のための音楽として構想されたのではないかと言われています。

この曲集の最後の曲が「キャベツとカブ」をテーマに変奏されています。

まずバロックから続くドイツ民謡「キャベツとカブ」
フレスコバルディ「音楽の花束」ベルガマスカ





49年の封印

2025-03-13 21:00:00 | ロマン派
月曜日に行った京都出町柳商店街の映画館「出町座」
並びには
昔の映画のパンフレットや、LP版レコードを売っているお店があり、
懐かしい絵本を売っている古本屋さんがありました。

もはや何を売っているのか、よくわからないお店も…。
ここはゆっくり時が過ぎているような気がします。

ジュゼッペ ヴェルディ(1813 - 1901年)フランス第一帝政ブッセート レ・ロンコレ生まれ、
イタリア ミラノ没

ヴェルディの肖像、モレンティーニ作、1839 ~ 1840 年

初めて書いた歌劇「オベルト伯爵」が成功し、ミラノ スカラ座の興行主メレッリの依頼され、27歳1840年に、喜歌劇「1日だけの王様」または偽のスタニスラオ
を書きました。

しかし、この興行は大失敗。
批評家からも散々な酷評でした。
ヴェルディは以来喜歌劇を封印。

次作1889年喜歌劇「ファルスタッフ」を書くまで49年かかりました。

こちらの方は、チケットは通常の30倍の価格にも関わらずヨーロッパ中から王侯貴族たち、芸術界の重鎮が集まり大盛況。
カーテンコールは1時間続いたそうです。

「1日だけの王様」のために集められたオペラ歌手に喜歌劇の経験がなかったことが失敗の原因にあげられています。

また、イタリアはオーストリアに支配され、人々の不満が渦巻き、リソルジメント(イタリア独立運動)の気運が高まっていた時代の空気に合わなかったこともあるかと思われます。

個人的な理由として、ヴェルディの2人の子供と妻マルゲリータ・バレッツィ

が、それぞれ1838年、1839年、1840年と、この作品の作曲前と作曲中に亡くなったことが大きいでしょう。

この後シリアスな悲劇の歌劇の傑作の数々を生み出しますが、この失敗が無ければ、成功も無かったかもしれません。

喜歌劇「1日だけの王様」

オペラの台本作家、フェリーチェ・ロマーニ

ポーランド王スタニスワフ・レシュチンスキ王

は継承戦争の歴史上の人物で、 1709年のポルタヴァの戦いでザクセン人の侵攻を受け、王位を失います。
1733年に王位を回復しましたが、1736年に再び廃位され、フランスに亡命しました。

このオペラは、スタニスワフがフランスから王位回復のために帰国する時にベルフィオーレ騎士をフランスで自分の身代わりに立て、ポーランドに戻るまでの1733年が舞台です。
ちなみにスタニスワフ王は登場しません。

2組の結婚パーティがあげられる予定。
1組は男爵の娘ジュリエッタと、町の財務官のラ・ロッカ氏。

もう1組の結婚は、男爵の姪であるポッジョ侯爵夫人とよそから来る伯爵です。

しかし、実はジュリエッタは財務官の甥エドアルドとポッジョ夫人はベルフィオーレと愛し合っています。

男爵と、婿になる財務官は喜び合っています。

「やあ、婿どの、よろしくね!」

そこへ、ポーランド国王が到着したと告げられます。

ポーランド王(ベルフィオーレ)は、今日の結婚パーティーにお客様として呼ばれています。

やってきたベルフィオーレは、男爵に

「今日は誰と誰が結婚するのかな?」

と尋ねたところ、私の娘とこの財務官、ポッジョ夫人と…、とこの名を聞いて驚くベルフィオーレ。

ベルフィオーレは1人になり、ポーランドにそろそろ着くであろうという本物の国王・スタニスラオに急いで手紙を書きます。

「親愛なる王よ、私の役目を解いてください、でないと私は恋人を失ってしまいます!」

そこへ、エドアルドが登場します。
彼は彼で財務官の甥なんですけれども、ジュリエッタと相思相愛なのに、伯父にそのジュリエッタを取られてしまうので、
エドアルド、絶望して、

ニセ王に
「僕をポーランドに連れて行ってください」
と願います。

彼らが去ったところへ、ポッジョ夫人が入ってきます。

彼女はにせの国王を見て、あれはどうやら、ベルフィオーレじゃないかと見破ったようです。ところが以前ベルフィオーレは王から密命を受けたので、突然彼女の前から姿を消しました。

「裏切られた」と思い、伯爵との結婚を進めてベルフィオーレがどう出るか、試すことにします。

第1幕 屋敷の庭。
ジュリエッタが悲しそうにしています。

そこへ男爵と財務官が来て、沈んでいるジュリエッタに声をかけます。ほどなくそこに、にせ王ベルフィオーレがエドアルドを連れて登場します。にせ王は、男爵と財務官に

「君たち、こっちでちょっと、政治的軍事的な話をしよう、その間エドアルド、お前はこちらのお嬢さんのお相手をしていなさい」

若い二人を二人きりにしてやろうという配慮です。

仲が良さそうな二人を見て、財務官は気が気でありません。かといって、国王の話をさえぎるわけにはいかない。

「あいつら近すぎる!離れろ!」

「おやおや財務官、君、話に集中していないね」

「いえいえ、そのようなことは」

こうやって話しているところへポッジョ夫人がやってきます。

焦るベルフィオーレ。男爵たちはベルフィオーレを、こちらポーランド王です、と紹介します。

ポッジョ夫人は、その正体に気づきつつも、空気を読んでその場では型どおり挨拶します。   

にせ王と男爵、財務官は別の場所へ。若いカップル2人が侯爵夫人に助けを求めます。
ポッジョ夫人は若い二人に協力することを約束します。

にせ王ベルフィオーレは、財務官に、

「君はやっぱりとても優秀だから、ジュリエッタとの結婚をやめてくれれば、ポーランド王女と結婚させて、君を大臣にしてあげよう」

財務官はまんまと喜び、承諾します。

にせ王がいったんその場を去ったところへ、男爵が登場します。

財務官は、
「ポーランド王から大臣の位と王女とのご縁談をいただいたので、この婚約は破棄します」
と言うので当然男爵は激怒。

「ふざけるな!貴様!決闘だ!」

暴れる男爵、うろたえる財務官。みんなが駆けよってきます。

ジュリエッタは喜びます。ポッジョ夫人も、

「それだったら、この若い男エドアルドと結婚させちゃえば?」
と言いますが、男爵は
「いや、だめだ!」とまた暴れています。

そこへにせ王が現れて、その場をとりなします。みんながにせ王に何とかしてください、と口々に願うフィナーレとなって、第1幕終了です。

第2幕。
屋敷では、召使いたちが、どうやら今夜の結婚式はなくなるんじゃないかと噂しています。
そこへエドアルドが現れ、
一筋の希望が見えている、と歌います。

一方、にせ王ベルフィオーレはジュリエッタに、「父親である男爵がなぜエドアルドとの結婚に反対するのか、」と聞くと、彼女は「男爵が貧しいのでエドアルドは金が無いから」と言います。

そこで偽王、財務官に
「君の財産とお城の、たくさんあるうちの一つを、君の甥であるエドアルドに譲りなさい」
と命令します。

財務官1人になったところへ、また男爵がやって来ます。
まだ怒っているようです。いろいろ言い争った挙句、決闘になりかけて、逃げる財務官、追う男爵。

さてポッジョ夫人、偽王に

「私を捨てて去っていった、とある騎士を私は許しません」

「(彼女、俺がベルフィオーレだって、気づいてるよな)いやいや、その騎士を許してやったらどうかね」

お互い、相手がどうやらとぼけているようだと悟りながらも、腹を探り合っています。

そこへ男爵が、「ポッジョ夫のお相手の伯爵が間もなく到着する。」と告げます。

夫人はベルフィオーレへの当てつけに、予定通り結婚する素振りを見せます。

にせ王ベルフィオーレは、
「あの、例の騎士のことは、どうするんだね?」

「私をその騎士が愛しているなら、ここに現れて止めるでしょうけどね」

困ったベルフィオーレ。

「(どうすりゃいいんだ!任務は破れない!)」

一方、エドアルドとの結婚が上手くいきそうで嬉しそうなジュリエッタ。そこへエドアルドが駆け込んできて、「そろそろ出発するポーランド王に、ついていかなくてはならない。」と告げます。

驚くジュリエッタ。

「私も一緒に行くわ、王にお願いする!」と宣言して、にせ王のもとに2人で向かいます。

一方ポッジョ夫人は
「1時間以内にベルフィオーレがここに現れなければ、この伯爵と結婚します」と宣言します

ベルフィオーレは、いよいよ焦ります。が、そこへ、本物のポーランド王から手紙が届き、

「自分は無事にポーランドのワルシャワに到着した、ベルフィオーレ、お前の役目を解いてあげよう」

との知らせが来ました。

ようやくにせ王は、自分を騎士ベルフィオーレだと名乗り、喜ぶポッジョ夫人。

それを聞いて、男爵や財務官はだまされた!とようやく騙されたと気づきますが時すでに遅し。

ポッジョ夫人とベルフィオーレ、エドアルドとジュリエッタの2組の結婚が成立し、みんなに祝福されたのでした。

長く忘れられていましたが、最近は何度か再演されています。
序曲「1日だけの王様」



暁の星

2025-03-12 21:00:00 | バロック
第2火曜日午前中は子育てサロン「ぽっぼくらぶ」当日でした。
申込不要、無料

インスタグラムでお知らせしているせいか、最近内容を知って来てくれている人が多いような気がします。
前日と違って冷たい雨模様で「一生懸命、準備した時に限って、こうなんだよね。」と言っていたら、雨にも関わらず、たくさんの親子連れが来てくれました。
お名前を呼んだり、ぽっぼくらぶの歌を振り付きで踊って、触れ合い遊び。
これが大事です。 
しっかりお母さんと遊んだという意識があれば、割と母子分離うまくいきます。
今回も少し泣いた子もいますが、しっかりお母さんから離れて遊んでくれました。

さて、お母さんたちは、両面テープを剥がして、枠と、洗濯バサミ、画鋲の他はおまかせ。
好きなところに貼ってもらいます。





素敵にできたでしょう?
この洗濯バサミに朝一番に撮った親子写真を挟んで持ち帰ってもらいます。
子どもたちはスタッフが見ています。
子どもたちはおもちゃとお母さんの間を行ったり来たり、滑り台に群がったり、中には割れ関せずで自分の遊びに集中している子もいます。
みんなが喜んでいる顔を見られてよかった!
今回は年度末なのでお弁当を食べながら会議をしました。

竹皮弁当780円。
ごちそう様でした。
原材料費高騰のため、来年の3月手づくりは違う物を考えます。
暁の星はいと美しきかな

ヨハン セバスチャン バッハ(1685−1750年)神聖ローマ帝国ザクセン=アイゼナハ アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没


カンタータ「暁の星はいと美しきかな」は、BWV1。

第1番になっていますが、作曲されたのは1724年で、バッハが聖トーマス教会

の楽長に就任して2年後に当たり、この歳を前後して後期のカンタータが多数作曲しています。

最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラが1720年7月に亡くなります。

彼女との間に7人の子どもがいたバッハは、
1721年、宮廷ソプラノ歌手16歳年下のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ(1701−1760年)

と再婚しました。
アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っていますが、彼女はバッハとマリア バルバラの子を含め10人の子どもを育てています。

1722年6月5日に、トマス・カントル、ヨハン・クーナウ(1660-1722年)

が死去し、後任の募集が行われました。

まず、候補として挙がった人物が、市民の人気を博し知名度も高かったゲオルグ フィリップ テレマン(1681-1767年)


1745年テレマン
でしたが、彼はラテン語を教えることを拒み、かつハンブルクでの昇給が約束されたため、辞退しました。

バッハの名は同年12月21日に市参事会の議事録に登場しますが、この時点で既に8人の名が挙げられていました。

トーマス教会のロマン派オルガン

その次に、候補として挙がった人物が、ダルムシュタットの宮廷学長クリストフ・グラウプナー(1683-1760年)で、1723年1月17日に2曲のカンタータを上演し大成功を収めましたが、その時の主君ヘッセン公が解雇を拒否し昇給をして彼を引き留めたため、同年3月23日に彼も辞退しました。

その次に、バッハとその他に、メンゼブルクの宮廷オルガニスト、ゲオルク・フリードリヒ・カウフマンと、ライプツィヒの新教会オルガニスト、ゲオルク・バルタザル・ショットの3人の候補が挙がるが、3人とも学科の授業に難色を示し、4月9日の議事録には「最良の人が得られなければ、中くらいのものでも採用しなければならない」という意見も上がっています。

市長ランゲは4月22日の正式な選抜会議にて、2月7日に行われたバッハのクラヴィーア演奏を称賛していますが、バッハが採用された最大の理由は教理問答とラテン文法の授業を担当することに同意した点でした。


「暁の星はいと美しきかな」はこのタイトルからも分かるように、聖母マリアの受胎告知の祭日に演奏されたカンタータです。

フランシスコ・ゴヤ Francisco José de Goya y Lucientes『受胎告知』個人蔵 1785年
実はルター派は偶像崇拝を嫌うため絵画あまり残されていません。
バッハのカンタータはルター派の教会の行事のため作られた実用的な音楽です。

ドイツ・プロテスタント音楽に受け継がれた伝統に忠実に従っていて、素朴な音楽です。

オペラでは最も華やかなアリアは、バッハのカンタータでは、切々と歌う敬虔そのものの音楽に変身しています。

オーケストラも合唱も、当時のバロックスタイルから見ると地味です。
その地味さの中に宗教性が秘められています。

バッハのカンタータは約200曲ありますが、そのどれもが個性をもち渋い輝きをもっています。


OSZAR »