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音楽の喜び フルートとともに

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失敗はみんなする!あの天才も…。

2025-03-30 20:38:00 | ロマン派
阪南ギタークラブのコンサートにでてきました、
打上げも参加しようと思っていましたが、次男が金曜日仕事から帰ってきたらお熱。
すぐに部屋に隔離。
食欲無いと言うのでお粥を作って運んで…。
朝もお粥。
さすがに打上げまでは無理。ということで昨日キャンセルして(ごめんなさい🙏💦)、朝2時間かけて阪南市尾崎まで、サラダホールに着きました。

ラピートは乗ってないけど、かっこよかったから

特急のサザンには乗りました。後ろ3両自由席は特急料金無し。

主催の山本さんが温かく迎えてくれました。

さて、結局1回も合わせられなかった北山さん。
こういう時も対処できなくては。緊張は何もいい結果を生みません。
リラックスしてベターを出してもらう作戦です。
にっこり笑顔でね!

2時間部屋を借りて悪戦苦闘。
本番は…。
まあ人生いろいろなことがあります。
冒険もたいがいにしましょう。

古今東西の作曲家もたくさん失敗し、落ち込んでいます。

実際ブルックナーも何度も何度も失敗しました。
規模もレベルも違いすぎるけど…。

ヨーゼフ アントン ブルックナー(1824-1896年)オーストリア帝国アンスフェルデン生まれ、オーストリア・ハンガリー帝国ウィーン没

交響曲第3番ニ短調は、1873年に最初の稿が完成された交響曲で、自分で番号を与えた3番目の交響曲にあたります。

リヒャルト・ワーグナーに献呈されたので「ワーグナー」という愛称も付けられています。

1873-74年初稿表紙
1872年に着手し、1873年に初稿(第1稿または1873年稿)が完成しました。

初稿執筆の最中の1873年、ブルックナーはリヒャルト・ワーグナー(1813-1883年)

1871年
に面会し、この第3交響曲の初稿(終楽章が未完成の状態の草稿)と、前作交響曲第2番
交響曲第2番の表紙
の両方の総譜を見せ、どちらかを献呈したいと申し出ました。

ワーグナーは第3交響曲の方に興味を示し、献呈を受け入れました。

この初稿により1875年、ヘルベック指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演が計画されましたが、リハーサルでオーケストラが「演奏不可能」と判断し、初演は見送られ、失敗しました。

1876年、ブルックナーはこの曲の大幅改訂を試み、1877年に完成しました。

1877年第2稿

同じ1877年、ブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮して、この曲は初演されました。

この初演は、オーケストラ奏者も聴衆もこの曲に理解を示さず、ブルックナーが指揮に不慣れであったことも手伝い、演奏会終了時にほとんど客が残っていなかったそうです。
残念。

とはいえ、残っていた数少ない客の中には、曲の初演準備のために2台ピアノへの編曲作業を手伝った、若き日のグスタフ・マーラー

ベルツ作1897年リトグラフ
もいました。

この初演の失敗により、ブルックナーはその後約1年間、作曲活動から遠ざかりました。

1878年、この曲が出版されることになり、それにあわせて一部修正を行いました。

1888年、再度この曲は大幅改訂され、1889年に完成しました。

2版改訂版
この稿は1890年に、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによって初演されました。
この第3稿での初演でようやく成功を収めました。

この曲の初稿をワーグナーに献呈する際、ブルックナーは表紙に「ワーグナー」の文字を華やかな金泥色で記すよう指示しました。

印刷された表紙は、ワーグナーの文字の方がブルックナーよりもずっと大きいです。

1873年8月31日、ブルックナーはこの作品と旧作の第2交響曲の楽譜を持ってバイロイトのワーグナー宅を訪問しています。

風采の上がらないブルックナーを見て、ワーグナー夫人のコジマ(1837−1930年)

1877年
は、物乞いと勘違いしたと言われています。本当かな?

ワーグナーはバイロイト祝祭劇場建設のプロジェクトに忙しく、

バイロイト祝祭劇場
献呈に興味を示さずほとんど門前払いの形でブルックナーを帰らせました。

しかし、後で楽譜を見て感動し、劇場建築現場にたたずんでいたブルックナーを連れ戻して抱きしめ、

「私はベートーヴェンに到達する者をただ一人知っている。ブルックナー君だよ。」と称賛しました。

献呈を快諾された晩、ワーグナー夫妻とブルックナーは2時間半程歓談したという記録が遺されています。
ワーグナーがしきりにビールを勧め、ブルックナーはすっかり酔ってしまいました。

ホテル「金の碇」Zum goldenen Anker Bayreuth 今も残るバイロイト祝祭劇場に近いホテル、ここでワーグナーとブルックナーの対面は行われました。ホテルのにやりとりが便箋が残っています。

翌朝ブルックナーは、ワーグナーがどちらの交響曲の献呈を受け入れてくれたのかすっかり忘れてしまっていました。

同席していた彫刻家キースに尋ねると
「ニ短調の交響曲についての話でトランペットが話題になっていました。」とこたえました。

そこで、念のためにとホテルに備付けられた便箋に、

「トランペットで主題が始まるニ短調交響曲(の方でしょうか)。A・ブルックナー」

「Symfonie in D moll, wo die Trompette das Thema beginnt. A. Bruckner mp.」

と書いてワーグナーに送ったところ、同じ紙に書き添えて

「そうです! そうです! 敬具。リヒャルト・ワーグナー 」

「Ja! Ja! Herzlichen Gruss! Richard Wagner」

との返事がありました。

交響曲第3番の自筆譜は、2台ピアノ編曲作業を手伝った経緯から、マーラーが所持していました。

マーラーの夫人アルマ(1879-1964年)

は、アルマ自身とマーラー、3度目の夫ヴェアフェルのいずれもユダヤ人の出自であったことと、ナチスがブルックナーの音楽を(ワーグナーと同様に)政治利用していたため、ナチスから所持品を没収されることを怖れ、マーラーの遺品のトランクの中からこのブルックナーの交響曲第3番の自筆譜を見つけ出し、1939年にアメリカへ密輸しました。

後、戦後オークションにかけました。

交響曲第3番 第3稿によるものです。



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