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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 [email protected]

ダウランドの靴屋の女房Toy!

2025-05-20 08:59:00 | ルネッサンス
8月に子育てサロンの主催でする地域の講習会。
革細工ができないかなあ?と試作してみました。
材料はすべて100均。
革はフェイクレザーです。
というのも大人もいるけれど、小学生低学年もいます。
ハサミで切れて、針を使わない。
木槌、カシメはぎり使えるかも、と思ったけれど、以前は100均にたくさんあったブライヤーが1つも売ってません。
流行ってないのかな?

穴を開けポンチは2個セットで100円。これは使えるかも。

木工ボンドを薄めて全体に塗り


ポンチで穴を開けて


ひっくり返して穴に紐を通したら出来上がり!


キーホルダーにしたければ上の穴に金具をつけます。


フェイクレザーでなければ、水をつけて成形して紐なしの動物ができるはずなのですが…。

子どもや男の子向きかな?これは。
大人向けには、縫わずにできるコインケースか、ペンケースがいいかな。

大人は縫うのは危険ではないけれど、縫い目を穴開ける工具がみんなに買えない。40人分…。
でもハトメは最低確保しないといけませんね。
こちらはテーブルで共有で大丈夫かも。
簡単だからデコレーションしてもらおうかな?

ジョン・ダウランド John Dowland (1563-1626年) イングランド生没

エリザベス朝後期およびそれに続く時代に活動した作曲家・リュート奏者。

デンマーク王クリスチャン4世(1577-1648年)


の宮廷リュート奏者や、イングランド王ジェームズ1世(1566-1625年)


およびチャールズ1世(1600-1649年)

の宮廷リュート奏者を務めました。

エリザベス朝前後に流行したメランコリア(憂鬱)の芸術の巨匠とされ、特に代表作であるリュート歌曲『流れよ、わが涙』(1600年)とその器楽曲版『涙のパヴァーヌ』は当時の欧州で群を抜いて最も高名な楽曲として、東欧を除く全ヨーロッパで広く演奏されました。

20世紀の音楽学研究者・リュート奏者ダイアナ・ポールトンらによる古楽復興運動以来再び注目を浴び、クラシック・ギターへの編曲も多く作られた他、2006年にはイギリスを代表するロック歌手スティングによってカバーアルバムが作られました。

ダウランドは
1588年にオックスフォード大学で音楽学士となりました。

ベリオール・カレッジ

イングランド女王エリザベス1世のもとで宮廷リュート奏者を望むも得られず、国外に職を求めた。宮廷楽士になれなかった理由として、青年期にフランスに滞在していた一時期カトリック教徒だったことがあったため、そのことが尾を引いて聖公会(イングランド国教会)
聖公会の総本山のカンタベリー大聖堂
のイングランドでは排斥されたのだと、ダウランド自身は信じていました。

しかし実際には宗教問題は関係がなく、宮廷が予算縮小の方向にあったことや、女王に献呈曲を書くのを怠ったことなどが問題だったのではないかとも言われています。

その後、ヴェネツィア、フィレンツェ、ニュルンベルクなどヨーロッパ各地を遍歴しました。

フィレンツェでは同地在住のイングランド人からエリザベス暗殺計画への加担を持ちかけられ、1595年にイングランド政界の重鎮ロバート・セシル


にその計画を密告しています。

1598年から1606年にはデンマークでクリスチャン4世付きのリュート奏者を務めました。

1606年にイングランドへ戻り、1612年に国王ジェームズ1世付きのリュート奏者となりました。

息子のロバート・ダウランドも作曲家・リュート奏者として活躍し、父の死後は宮廷リュート奏者の地位を継承しました。

歌詞は無くて、リュート音楽として普及しています。革製品と言えば、靴ということでダウランド載せてみました。
A.Toyの意味は、何?

辞書によると

玩具、おもちゃ、遊び、本物をまねた安物の〕装飾品、ちっぽけな[つまらない]もの、〔犬などの〕小型種〈話〉〔暇つぶしの〕遊び、楽しみ、〈話〉〔もてあそばれる〕人



…あまりいい意味ではないみたい。もてあそんだのか?もてあそばれたのか?

shooter marble
靴屋の女房 P. 58
The Shoemaker's Wife, a Toy, P. 58



ヒロイックバロックバレエより

2025-05-19 21:00:00 | バロック
土曜日はあびこランズホールでバロックの会でした。
バッハ、テレマン、ヴィヴァルディ、マレ、スカルラッティ、クープランなどバロックの巨匠から、ロッティ、ロワイエ、カルダーラなど初めて聴く曲も。

楽器はヴァイオリン、フルート、フルートトラヴェルソ、ヴィオラ、チェロ、ヴィオラ・ダ・ガンバにチェンバロ。そうそうテノールもいました。

ソロから合奏まで、すべてバロック!
おもしろい企画でした。

私は、フルートの角谷雅一さんとチェンバロKさんとマラン・マレの組曲Gmollを演奏しました。

写真はヴィオラ4本で演奏するバッハのブランデンブルク第6番BWV1051
なんでもコロナの頃にオンラインで流行った合奏でチェロ、バスのパートも満遍なく回ってくるそうです。
めっちゃくちゃ楽しそうでした。

ジョゼフ=ニコラ=パンクラス・ロワイエ(Joseph-Nicolas-Pancrace Royer, 1705 - 1755年)
サヴォイア公国トリノ生まれ、フランス王国パリ没


ロワイエがジャン=マルク・ナティエ作「ザイード」 (1750年頃)を作曲している様子

サヴォイア公国(現在のイタリア・ピエモンテ州)のトリノに生まれ、と言っても
イタリア人というわけではなく、父親がその頃サヴォイア宮殿の庭園と噴水の管理人として派遣されていただけです。

1725年に一家はその後すぐにパリに戻ってきましたが、彼が公式にフランスに帰化したのは1751年になってのことでした。 

1734年にルイ15世

の子供たちの音楽教師(maître de musique des enfants de France)に任命されます。

1746年が『クラヴサン曲集 第1巻』出版されます。

1748年から、ヴァイオリニストのジャン=ジョゼフ・ド・モンドンヴィルと共に、コンセール・スピリチュエルを指導。

さ1730年代と1750年代を通じて、パリ・オペラにて6作のオペラを作曲。

その中では、ヒロイック(英雄的)バレエ音楽《グレナダの女王ザイード Héroïque Zaïde, reine de Grenade》が最も有名です。

『ザイード』は、ラ・マール神父(またはラ・マール)(1708ー1742 年)の台本によるもので、作曲者自身の指揮で、1739年9月3日にルイ15世の娘の結婚式で初演され、44回上演されました。

その後、 1745年の王太子の結婚式、そして1770年のマリー・アントワネットの結婚式で再演されました。

物語はアルハンブラ宮殿に住むザイード女王が、二人のライバルであるムーア人の王子のどちらかを愛するかという決断を迫られ、善良な王子を選ぶというものです。

1753年、王室音楽監督を拝命。同年、王立歌劇場管弦楽団の監督に任命されました。
パリで死去。

彼の死後の1756年に「2冊分に足るクラヴサン曲」の存在が報告されていますが、現存しません。

『クラヴサン曲集 第1巻』より第14曲《スキタイ人の行進 La Marche des Scythes》。

ロワイエのクラヴサン曲の中でもとりわけ人気が高いのが、曲集の終わりを飾る第14曲《スキタイ人の行進 La Marche des Scythes》です。

これも実は自ら作ったバレエ音楽《ザイード》からの編曲で、3幕5場の《トルコ人のためのエール Air pour les Turcs》が元になっています。


バッハは組曲と呼ばなかった?!

2025-05-18 21:00:00 | バロック
土曜日は朝からレッスン。
豪雨の中来てくださったのはMさん、奥さまが車で送ってくださったそうです。
よかった!

レッスン曲はバッハの管弦楽組曲第2番のロンドでした。

うちのミニ薔薇「アンジェラ」

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750年)
神聖ローマ帝国ザクセン=アイゼナハ アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没
管弦楽組曲は第1番から第4番まであります。

成立年代はそれぞれ、バッハが世俗器楽曲を多数作曲したケーテン時代(1717年-1723年)、またはそれ以前のヴァイマル(1708年-1717年)時代と考えられています。

ですが、トランペットやティンパニを含む第3・第4組曲などの編成を見ると、当時のケーテン宮廷

レオポルト・フォン・アンハルト=ケーテン侯(1694-1728年)

ケーテン城

の小規模な楽団には不釣り合いと思われ、のちのライプツィヒ時代(1723年以降)に、コレギウム・ムジクム(16世紀から18世紀にかけてのドイツ語圏で見られた民間の音楽愛好団体。)での演奏のために大幅に加筆された可能性が高いそうです。

ライプツィヒのコレギウム・ムジクムが演奏会を開いたゴットフリート・ツィンマーマンのコーヒーハウス

また第4組曲の序曲は、ヴィヴァーチェ部分に合唱を加えて、カンタータ110番の冒頭合唱曲に転用されています。

なお、「第5番」とされた管弦楽組曲 ト短調 BWV 1070(英語版)は、今日では長男フリーデマン


の作との見方が有力です。

バッハはこの作品群を「組曲」(Suite)とは呼びませんでした。というのも、バッハにとって組曲とは、アルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグの4曲から成る組曲、あるいはそれにいくらかの舞曲を加えたものでした。

従って「序曲に始まる作品」というような意味で「序曲」 (Ouvertüre) と呼ばれていました。

これに基づいて、新しいバッハ全集では「4つの序曲(管弦楽組曲)」としています。

第2番ロ短調。
演奏時間は約20~25分。合奏協奏曲的な第1番に対して、2番はフルートが主に活躍し、フルート協奏曲といってよい形式を取っています。

フルート(フラウト・トラヴェルソ)
ヴァイオリン 2パート
ヴィオラ
通奏低音(チェロ、コントラバス、チェンバロで演奏されます)

・序曲 4/4 - 2/2 - 3/4
・ロンド 2/2
・サラバンド 3/4
・ブーレ I - II - I 2/2
・ポロネーズ 3/4
・メヌエット 3/4
・バディヌリー 2/4





ヘンデルのヴァイオリンソナタでリラックス

2025-05-17 21:00:00 | バロック

金曜日は午前中、子育てサポートの面談をしました。
預かる前に必ず面談をして、いろいろ確認します。
お子さんの様子。どこで預かるのか?などだけでなく、お母さんに面接してもらって、気になることを聴いてもらいます。
安心して大切なお子さんを預けてもらうためにどうしても必要です。

午後からは目の健診。
「左眼はよくなってはるけどなぁ…。」
「右眼の浮腫がまだ。7月に見て悪かったら、注射しましょう。」
というわけで無罪放免とはなりませんでした。残念。
ごちそう食べ過ぎたし、睡眠不足もあったし、仕方ないか。

藤森駅前の疏水

gooブログが終わるので、今いろいろお試ししています。
と言ってもおすすめのAmeba

は、以前アカウントをとって、ブログ仲間を追いかけていましたが、1ヶ月か置きにログインを求められ、その度にパスワードあっていると思うのですが、ログインできない状態で新しいパスワードをとって入力してもだめだったり、しばらく置いてログインすると同じのでできたり、できなかったり。その煩わしさったら!
最後はついに理由もわからずログインできなくなったのでごめんなさい。放置です。

note

は、アカウントとって、データが少なくてどうも移転できそうもないと気づいて中止。

はてなブログにはgooと同じ記事を15ほど書きました。
いつでも引越し自由というので

コメント確認、返信がアプリでできなかったり、ハッシュタグがつけられなかったり。
いちいちブラウザ画面に移らないとできません。
書体の大きさもアプリで試しただけですが、文節ごとに大きくしないといけません。
そのままだと薄くて小さくて私には読めません。
ゴシック体1択だし…。

gooブログに比べてパソコン使用が基本なのか?と思います。
装飾や背景をカスタマイズできるとかですが、まだそこまでする余裕が無い…。たぶんパソコン開けないとだめかも。

動画は直接シェアできないので初め「あらら…。」と思いましたが、ネット検索で
URLをコピーして「:embed」とつければなんでも埋められることがわかって一安心。
gooブログではできなかったラジオトークの埋め込みもできます。

後は、Google検索すると「はてなブログ 音楽の喜び フルートとともに」としても「gooブログ 音楽の喜びとともに」が上位にあがってきます。

前に書いたことを忘れるので😅💦
「音楽の喜び シューベルト」と入れるとgooブログはシューベルトで書いた全記事あがってくるけれど、はてなブログの最新記事はかすりもしない。
読者数がまだ少ないからかも…。
カテゴリー、ハッシュタグはあまり意味ないような気もします。

「音楽の喜び フルートとともに  カテゴリー ロマン派 レニャーニ」とか入れるとgooブログはちゃんとハッシュタグがあればヒットしていたのに…。
それにnoteは18いいねくらいですぐヒットするのに。

なせ?さっぱりわかりません。
どなたか詳しい方いらっしゃらないかなぁ?

後はFC2も試してみようと思っています。急に終わることもあるのなら、いくつか保険をかけるのもいいかなぁ。と思って。

はてなブログが使えるとわかれば本格的に引越しもできるのですが…検索に引っかかるかどうかは私にしたら大問題。

引越し作業に何日も…何ヶ月もかかったという方がいて、そんなに大変ならどうしよう?時間が無い。

せっかくなので残したいのですが、同じデータを別の会社に2つも持つことができるかどうか?
そこからなんです。
ウキッ〜!

目も悪いのでサングラス装着でスマホのぞくのも煩わしいし…。
ふぅっ!
こんな時は音楽を聴いて心を落ち着かせましょう。


ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685 - 1759年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領バレうまれ、グレート・ブリテン王国ロンドン没は
1725年- 1726年頃、ヴァイオリン・ソナタ イ長調( HWV 36はヴァイオリンと通奏低音のために作曲しました。

この作品は作品1-3とも呼ばれ、1732年にウォルシュ社によって初版が出版されました。

ヘンデルの他の楽曲目録では、 HG xxvii,12、HHA iv/4,2と表記されています。

ウォルシュ版とクリサンダー版はどちらもこの作品がヴァイオリンのためのものであることを示しており、ソナタ として出版しました。
ヘンデル


シューベルトとレニャーニ

2025-05-16 20:53:00 | ロマン派
火曜日紙本桜士さんのラジオトークRadiotalkの番組「トクトクトーク」の収録をしました。

人気ゲストは重要無形文化財能楽師の辰巳満次郎さんや、映画監督でピアニストの岡本美沙さん、他にもメディア関係の本を出版されている方とかすごい人が出演されています。

「そんなところに、出てもいいのですか?」と聴くと
「いいんです。フルートやクラッシック音楽の楽しさを僕も伝えたいと思っているので!」
と紙本さんが言われるので、恥を忍んで出演させて頂きました。
もっとりっぱなふさわしい先生方がいらっしゃると思うのですが…。

12分番組で2、3分の音楽を流します。
クラッシックの曲は長い…それに録音あまりしないので。

スマホで会場録音OKのところで撮った最近のものを、YouTubeにあげて、12分32秒から流してください。
みたいなことになっています。

もうちょっといい音でと思うのですが…ごめんなさい。
2本撮りです。

The雑談って感じで、あちこちとんてますが、ぜひお聴きください🙏

シューベルトの「アヴェ・マリア」編
#Radiotalk #トクトクトーク! つながる つなげる Radio https://radiotalk.jp/talk/1308637:embed

レニャーニ「二重奏」編
#Radiotalk #トクトクトーク! つながる つなげる
#Radiotalk #トクトクトーク! つながる つなげる Radio https://radiotalk.jp/talk/1308960



ベーム式と歌口工房TAKAMURA

2025-05-15 20:53:00 | ロマン派
水曜日午後から樟葉でピアノKさん、フルートの角谷雅一さんと久米でトリオの合わせでした。

角谷さんはフルートのコレクターでもあるので毎回おもしろいフルートを持って来られます。
今回は冒頭写真のケース。
K2 COLORADO STATE Collegeのロゴ。

その中には

カール・ハマーシュミッツのフルートということでしたが、私は初めてみました。
どういう工房なのか?調べてみましたが

Karl Hammerschmidt
カール・ハマーシュミット・アンド・サンズ社。

カール・ハマーシュミットは1870年代初頭から木管楽器の製作を始めました。

当初はシェーンバッハで、後にヴァルツケンロイト・バイ・フライセンでカール・ハマーシュミット&ゾーネ社として活動しました。

シュヴァーベンのブルクアウへの移転は1940年代半ば以降と思われます。

1800年代後半にマーチング専用の2オクターブのC管フルートを作っていたこと。
わかったのはこれくらい。

角谷さん、Cキーが破損激しく、ボタンを貼って使っているそうです。

ボタン。
楽器収集する人は、ボタン使うことがセオリーなのかも…私も榎田先生にバスフルートのキーが遠くて届きにくいと訴えたら、「ボタン貼っときなさい。」と言われて貼ってました。

角谷さん「ブサイクだから、もうちょっときれいにする予定だけどね。」だそうです。

カール・ハンマーシュミッツ吹かせてもらいました。

柔らかないい音。 
上のCから下のCまできれいになりました。
ハマーシュミッツはレスポンスが良いことで有名だったそうです。

ただし、現状ではDやCなどキーを押さないといけないところは調整が必要です。
角谷さん、ご自分で調整されるのでこれからが楽しみです。

練習はフレンチバロックの巨匠マラン・マレの組曲Gmoll

この2本で。
パウエルにパウエル木製頭部管と歌口工房TAKAMURA、

日本が誇るTAKAMURA YOSHIOさん作の薩摩黄楊の頭部管とパウエル洋銀で演奏します。

TAKAMURA YOSHIO
1956年、東京に生まれる。

1975年、国立音楽大学に入学。フルートを故、木下芳丸氏に師事する。

1979年、同大卒業後、音楽教室講師等を経て某フルートメーカーに入社。

約15年間組み立て作業に携わった後、歌口課に異動してすべての機種の頭部管製作に従事する。

2013年7月17日、退職し自宅で頭部管製作を始める。

現在自宅の片隅の秘密基地様の仕事場で作業を続けています。
ー歌口工房ホームページより

テオバルト・ベーム(1794-1881年)バイエルン選帝侯領ミュンヘン生まれ、ミュンヘン没

ドイツ人の発明家、音楽家。
従来のフルートの楽器としての性能を向上させました。

「ベーム式フルート」を完成させました。
フルート奏者としても一流で、バイエルン王国の宮廷音楽家として活躍しました。さらに、作曲家としても、フルートのための作品を残しました。

テオバルトは、父から貴金属の加工法を学びましだ。
その技術を応用して木製のフルートを自作し、18歳の時にはオーケストラに入団できる程に上達し、21歳で宮廷管弦楽団の首席奏者となりました。

1831年にロンドンで、チャールズ・ニコルソン(1795年 - 1837年)によるフルート演奏を聴いたことをきっかけにフルートの本格的な改良に着手し、翌年にいわゆる円錐ベーム式フルートを発表しました。

円錐ベーム式フルート(Gisクローズ式)

1832年のフルート大改良の時から、理想に向かって幾多の困難を乗り越え、ついに1847年『フルートの構造とその改良について』の論文を発表し、音響学上、機械工学上、科学的原理に基づいた「理想的なフルート」を完成させることに成功しました。 

その後もフルートの材料として、熱帯産の硬い木材、銀、金、ニッケル、銅など様々な素材を試していきました。
さらにフルートの構造に関して、音孔の大きさや位置に関する検討も行いました。

50歳を過ぎてからミュンヘン大学

大学中央図書館
で音響学を学んだ後、今日のフルートとほぼ変わらない金属製のフルートを開発して1847年に特許を取得し、1851年にはロンドン万博にて一般公開されました。

ロンドン万博1851年

この時に出展されたフルートは1851年のロンドンで開催された、国際博覧会にて最高賞を受賞し、音色、音程、機構の三拍子揃った改良フルートの優秀性が認められました。

1871年にはベーム式フルートの音響学的、技術的、芸術的な側面について解説した
『"Die Flöte und das Flötenspiel"(フルートとフルート奏法)』を出版しました。

彼は作曲家としてフルートのために60曲余りの作品を残しました。

24の練習曲は、ベームが改良フルートのために書いた、中・上級練習曲です。
全調24曲から構成され、『Caprice』と題され、各々に特徴ある音形、要素を駆使した旋律的な練習曲です。

「改良フルート」の機能を十分に発揮でき、また、芸術的に演奏技術を習得できるようにと、1851年から翌年にかけて、作曲されたものと考えられます。
現在でも世界各国で活用されています。

テオバルト・ベーム『24のエチュード』19番 
演奏TAKAMURA YOSHIO
自身製作の木製頭部管で





薔薇が咲く頃デュファイ

2025-05-14 20:57:00 | ルネッサンス
裏庭のピエール ド ロンサールが咲いています。
もうすぐ満開。
レッスンに来たOさんにも観てもらいました。

「お世話たいへんですよね。」
とおっしゃるので
「いえいえ、ほとんど何もしません。10年くらい植えっぱなしで咲いてくれます。」
「私も育てようかな。」
「大丈夫ですよ。」
名前をメモして帰られました。
穏やかな1日でした。



Guillaume Dufay (c.1400-1474)
ギョーム・デュファイ
(1397-1474年)プラバント公国ベーアセル?生まれ、フランス王国カンブレー没



無名の司祭とマリー・デュ・フェイという女性との間の私生児として生まれました。

彼女は息子と共にカンブレーに移り、そこの大聖堂の参事会員であった親戚のもとに滞在しました。

1409年の夏にロジェ・ド・エダンに師事し、1409年から1412年まで大聖堂の聖歌隊員として記録されています。

この間ニコラ・マランに師事
1411年にはヴィルデューの『プエロルムの教義』を彼に贈りました。これはその年齢では非常に異例のことでした。

1414年6月、16歳頃の彼は、カンブレーに隣接するサン・ジェリー教会で司祭の地位を与えられ、そこでニコラ・マランとリシャール・ロックヴィルに師事しました。

1418年11月から1420年まで、カンブレー大聖堂の助祭を務めました。
1420年にカンブレーを離れ、最初はリミニ、次にペーザロに行き、マラテスタ家に仕えました。彼の作品のいくつかはこの時期に作られました。

1424年、デュ・フェイは、母親が滞在していた親戚の病気とその後の死のため、カンブレーに戻りました。

1426年にはイタリアに戻り、
ボローニャでは、教皇特使のルイ・アレマン枢機卿( 1390 - 1450年)に仕えました。ボローニャ滞在中に助祭となり、1428年に司祭に叙階されました。

同年12月にはカンブレーに到着。カンブレーでの彼の記録に残る最初の文書の一つは、1440年12月27日付で、福音記者聖ヨハネの祝祭のために36ロットのワインを受け取ったというものです。

デュ・フェイは1440年代を通じてカンブレーに滞在し、その間ブルゴーニュ公に仕えていました。カンブレー滞在中、ニコラ・グルノンと共同で大聖堂の典礼音楽集の全面改訂に取り組み、礼拝用の多声音楽の膨大なコレクションを作曲しました。

音楽活動に加え、彼は大聖堂の運営全般にも携わりました。

1444年、母マリーが亡くなります。
1445年、デュ・フェイは前任の聖職者(カンノン)の家に移り住み、そこを終生住まいとしました。

サヴォイとイタリアへの旅
1449年、最後の対立教皇(フェリックス5世)


が退位した後、かつての雇用主であったサヴォワ公アメデ8世

が教会内での諸派間の争いは収まり始め、デュ・フェイは再びカンブレーを離れ、南方へと向かいました。

1450年、アメデ8世の死の直前にトリノへ向かぃましたが、同年後半にカンブレーに戻り、1452年には再びサヴォワに戻りました。
この時期の作品、 1453年のコンスタンティノープル陥落
コンスタンティノープルの包囲(1453年)、1455年以降にジャン・ル・タヴェルニエが描いたフランスのミニチュア
オスマン帝国に侵略され陥落しました。
に際して作曲した4つの哀歌のうちの1曲や、 「顔は青ざめて」に基づいた有名なミサ曲、ロレンツォ・デ・メディチへの手紙などがあります。

デュ・ファイからメディチ家への手紙、1454年2月22日

引退後に満足のいく職を見つけることができなかったため、1458年に北部に戻りました。

晩年を過ごすためにカンブレーに戻ったとき、彼は大聖堂の参事会員に任命されました。

今や彼はヨーロッパで最も有名な作曲家でした。
彼は再びブルゴーニュ宮廷と密接な関係を築き、彼らのために音楽を作曲し続けました。

さらに彼は、ビュノワ、オケゲム、ロワゼ・コンペールなど、次世代のポリフォニー様式の発展に決定的な役割を果たした多くの人々と交流しました。
この時期に彼はおそらく人気のあった「武装した男」の曲に基づいてミサ曲を作曲し、シャンソン「あなたがたは夜を明かす ― 武装した男」の作者である可能性があります。

後者の作品は、コンスタンティノープルを占領したばかりのトルコに対する新たな十字軍を呼びかけていたフィリップ善良公に触発されたものとされています。
彼はまた、 1460年頃にレクイエムミサ曲を書きましたが、これは失われています。

デュ・フェイは数週間の闘病の末、1474年11月27日に亡くなりました。

彼は臨終の際にモテット「アヴェ・レジーナ・セロルム」を歌ってほしいと頼んでいましたが、時間が足らず。その代わりに、現在は失われているレクイエムミサが葬儀で演奏されました。
デュ・フェイはカンブレー大聖堂のサン・テティエンヌ礼拝堂に埋葬され、墓石には肖像画が刻まれています。

フランス革命で大聖堂が破壊された後、墓石は失われましたが、1859年に井戸を覆うために使われていたところが見つかり、現在はリールのパレ・デ・ボザール美術館に所蔵されています。

Nuper Rosarum Flores
薔薇の花が咲く頃
1436年3月25日に行なわれたフィレンツェのサンタ・マリア・デル・ フィオーレ大聖堂の献堂式のために作曲された祝典モテトゥス。

式を執り行った教皇エウジェニウス4世の聖歌隊に所属していたデュファイが 作曲しました。

厳格な イソ・リズム法 に よって書かれた モテトゥス で、 二つのテノールには献堂式のためのグレゴリオ聖歌が歌われ、上声部はこの献堂式を祝う歌詞が歌われます。

Nuper Rosarum Flores
薔薇の花が咲き頃



ヴェルサイユ宮殿でリュリのオペラ

2025-05-13 21:00:00 | バロック
月曜日は渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
6月にコンサートがあるので、みんな集中して練習に挑んでいます。
私は1月2月に休んだ分を取り返し中。

「煙が目に染みる」とドボルザークの「セレナーデ」第1楽章を練習。

今日の課題は「煙が目に染みる」をテンポを遅くせずに、けだるく演奏することでした。
榎田先生に
「それじゃあ、中学生が体育館の裏でたばこ吸ってるみたいだよ。元気すぎるんだ。」と言われてしまいました。

8分音符と付点の音は3連譜の1と3のように吹くところ、つい書いてあるとおりに吹いてしまいます。

それから四分音符の刻みもアクセントが強すぎると元気になってしまいます。その辺りまだまだ研究が必要みたいです。

「セレナーデ」はクレッシェンド、ディミュニエンドをしっかりつけることとクラシカルな音で吹くこと。
油断すると「吹奏楽のようなバカっぽい音になってる」そうです。榎田先生の私見です。
私は吹奏楽もいろいろニュアンスがあると思いますが…。

とにかく「上品で優雅な音」で吹くことを目指します。

さて6月の初めの練習は榎田先生のヴァイオリンをされている娘さんが、フランスで演奏されるそうです。
聴きに行かれるのでメンバーだけの自主練習になりました。

なんと、ヴェルサイユ宮殿でリュリのオペラ「プロセルピナ」を古楽器オーケストラで演奏されるそうです。

いいなぁ!私も聴きに行きたい。

榎田先生「おれ、やっぱりリュリが1番好きかもしれない!」
「男っぽいし、王様が踊るし、俺様で偉そうなんだよ。」ですって!

ヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)

は、1682年、フランス王ルイ14世(1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年) 

が建てたフランスの宮殿(建設当初は離宮)です。
ヴェルサイユ城(Château de Versailles)とも呼ばれています。

宮殿内には地方の有力貴族の居住空間も用意され、権力の一極集中を実現していました。
そのため、フランスの絶対王政の象徴的建造物ともいわれています。

宮殿はルイ14世をはじめとした王族と、貴族たちが国政を議論する場であり、時には社交場でした。

今からこちらでチケットをとることもできます。
6月15日ヴェルサイユ宮殿でのオペラ「プロセルピナ」
(ヴェルサイユ宮殿公式サイト)より

プロセルピナ(ラテン語:Proserpina)は、ローマ神話に登場する春の女神、あるいは冥府の女王。ギリシア神話のペルセポネーに対応します。


ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ『プロセルピナ』(テート・ギャラリー蔵)

ユーピテルとケレースの娘。冥府を司る神プルートーに冥府に誘拐されて妻となりました。

母のケレースが娘がいなくなったことに気づき娘を連れ戻そうとしますが、冥府でザクロの実を食べてしまったため、冥府の食べ物を食べた者は冥府に属するという神々の取り決めにより、1年のうち半分を冥府で、残り半分を地上で過ごすこととなりました。

プロセルピナが地上に戻る時、春となり大地は潤うようになりました。

元々ローマにいた農業の女神か、またはローマにはいない神であり、ローマがギリシアの神々を受け入れた際にできた神といわれています。


ジャン バディスト リュリ(1632-1687年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス帝国パリ没


オペラ「プロセルピナ」

Lully: Proserpine

バレエのアントレで装飾されたキノー作の悲劇、サンジェルマンアンレー、1680年2月3日初演。

台本フィリップ キノー(1635-1688年)


オウィディウスの『変身物語』に基づき、物語の中心はプロセルピナがプルトンに誘拐されるというもので、ケレスのジュピターへの恋やアルフェとアレテューズの恋の陰謀に関する副次的な筋書きも描かれています。

リュリ オペラ「プロセルピナ」より序曲





熊蜂の飛行リムスキー・コルサコフ

2025-05-12 21:45:00 | ロマン派
日曜日、裏庭のウスイエンドウを収穫しました。
一株ですが、結構できていました。しかし!
大きくなるのを待っているうちに虫さんが…。
えんどうのさやに穴が空いています。
急ぎ収穫してみました。
残念!残ったのは少しだけ。

豆ご飯を食べるという野望は潰えたので卵とじにでもするかな? 

金柑はちょこちょこ食べていたので残りこれだけ。

スウィーティーオレンジ。

昨年2個だったので、今年は期待できるかも。
すたちと受粉にクマバチがやってきて大騒ぎです。
彼らは身体は大きいけれど刺さないので安心ですが…。

ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフНикола́й Андре́евич Ри́мский-Ко́рсаков, (1844−1908年)ロシア帝国ティフヴィン生まれ、ロシア帝国リューベンスク没

が作曲した曲
「熊蜂の飛行」(くまばちのひこう Полет шмеля、英語: Flight of the Bumblebee)は、オペラ『サルタン皇帝』の中の間奏曲です。

このロシア語の"Шмель"、英語の"bumblebee"の和名はミツバチ科マルハナバチを指すそうです。このハチなら刺すこともあるそうです。

クマバチは温厚な性格で人に関心を示しません。
オスにいたっては針が無いそう、刺すのはメスですが毒は弱く、巣を壊すなどよほどのことがない限り刺さないそうです。

和訳では「くまんばちの飛行」、「熊蜂は飛ぶ」、「くまんばちは飛ぶ」等とも訳されています。

アレクサンドル・プーシキン(1799−1837年)

の原作に基づき1889年から翌年にかけて作曲されたオペラ『サルタン皇帝』( Сказка о царе Салтане)


第3幕第2場への間奏曲です。

『サルタン皇帝』は1900年にサンクトペテルブルクで作曲したプロローグと4幕からなるオペラ作品です。

サルタン皇帝の王妃が、二人の姉に妬まれて王子とともに海に流されますが島に漂着し、王子が成人して白鳥を助け、人間に姿を変えた白鳥と結ばれるという話です。

主人公のグヴィドン王子が魔法の力で蜂に姿を変えて都へ飛んでいく場所で使われます。
その後、蜂が悪役の2人の姉妹を襲う場面でも同じ音楽が使用されています。

サルタン皇帝』のための蜂の衣装スケッチ。コンスタンチン・コローヴィン画、1913年

プーシキンの原作ではグヴィドンは3回虫に変身していますが(1回めは蚊、2回めは蝿、3回めは蜂)、リムスキー=コルサコフの作品では蜂のみが採用されています。

熊蜂の飛行


ギター居酒屋でポンセの「ソナタロマンティカ」

2025-05-11 21:00:00 | ロマン派
5月10日梅田クラベリトギター居酒屋でライブでした。

夜7:00前にクラベリトに行くと、もう渡邊信行さんが来ていました。
「前にもお会いしましたね。」とマスター。
川原さんのライブの時に聴きに来ていました。
伝説のギター居酒屋「グラナダ」の時に2回出演させていただいています。

ギターを愛し、ギターのための居酒屋。
演奏時はお酒を出さないで音楽を聴く居酒屋。
今も継承されててうれしいです。
少しリハーサルをしていると
やはりギター好きの人が集まってくれました。やはりギター弾きばかり。
フルートのアンサンブルの仲間も2人。

8:00まずはソロ。

渡邊さんはシューベルト特集。
有名な歌曲「セレナード」「楽興の時」

そしてポンセの「ソナタ ロマンティカ」シューベルトの曲にインスピレーションを得て、ポンセがギターソロのために作った曲です。


その後9:00〜いよいよ私のフルートとギターのための時間。
レニャーニの「大二重奏曲」op23
楽しかった!
マスターも「元気が出る曲ですね!」
アンコールにシューベルトの「アヴェ・マリア」を演奏して終演。

「しっとりといい感じ!」
マスター盛り上げるのうまい。

後はお客様と飲んで、話して夜は更けていくのでした。

マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル(Manuel María Ponce Cuéllar, 1882年12月8日 - 1948年4月24日)メキシコ サカテカス州フレスニージョ生まれ、メキシコ メキシコシティ没

は、メキシコの作曲家・音楽教師、ピアニスト。後期ロマン派音楽の作曲様式から新古典主義に転じました。

ポンセは生後間もなくアグアスカリエンテスへ移りました。

地方の聖堂で教育を受けつつ、16歳で教会の正オルガニストを務めるなど音楽の才能をあらわし、その後18歳からメキシコシティ国立音楽院で学びました。

1905年に渡欧、ボローニャとベルリンに留学し、リストの弟子のマルティン・クラウゼ

にピアノを師事しました。

1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始めます。
この時期の門人にカルロス・チャベスがいました。
ピアニストとしては、ドビュッシーなどの作品の紹介に努めました。

メキシコ革命(1910年から1917年にかけて起きた民主化革命)

の混乱を避けて1915年から1917年までキューバに滞在し、この間にニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たしました。
その後メキシコに戻ってフランス出身の女性歌手と結婚します。

1925年から再び渡欧し、パリ音楽院でポール・デュカ(1865年〜 1935年)


に作曲を師事、また同地でギター奏者のアンドレス・セゴビアと親交を結びます。
短期間でしたがナディア・ブーランジェにも師事しています。

1933年に帰国し、メキシコ大学や母校で教鞭を執る一方、ピアニスト、指揮者としても活躍しました。

晩年は腎臓病、リウマチに苦しみました。
1948年、ミゲル・アレマン大統領から「芸術科学国家賞」を音楽家として初めて受賞しましたが、間もなくメキシコシティで尿毒症により死去しました。

翌1949年、メキシコ国立芸術院のホールが "Sala Manuel M. Ponce" と命名されました。メキシコシティのパンテオン・シビル・デ・ドロレスに埋葬されています。

ポンセは今日、ヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品として有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』(Estrellita)の作者として有名です。(詞も彼自身による)

しかし、新古典主義様式でヴァイオリン協奏曲やギター協奏曲『南の協奏曲』(Concierto del Sur, 1941年)などの大作も残しました。

初期のピアノ協奏曲は、シューマンを思わせる叙情性と情熱的な表現によって、ロマン派音楽の伝統で作曲されています。

この他にも、ロマン派から印象派までの影響を受けたマズルカなどの舞曲、演奏会用練習曲、変奏曲やフーガなどのピアノ曲を多数残していますが、失われた曲も多い。

しかしポンセのオリジナルな器楽曲として有名なのはギター作品で、とりわけ、
『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』(1929年)や、シューベルト没後100周年を記念する『ロマンティックなソナタ』(Sonata Romantica, 1927年 - 1929年)、
『ギター・ソナタ第3番』(Sonata III, 1927年)、
『南国のソナチネ』(Sonatina Meridional, 1939年)は、セゴビアの演奏技巧を考慮して作曲されていて、ギター演奏家に人気があります。

ポンセはヨーロッパ仕込みの洗練された作風で知られ、創作の素材としてはスペイン征服後の民謡を多く用いました(ピアノ用に2曲残した『メキシコ狂詩曲』(1911年/1913年)など)。しかし、後年には教育用の『20のやさしい小品集』(1939年)において先住民族の民謡を素材として用いています。また、フランス留学後は新古典主義、多調などを取り入れた先鋭的な作風に転じました。

1929年出版献呈 アンドレ セゴビアAndrés Segovia (1893–1987年)

Sonata romantica
I. Allegro non troppo, semplice
II. Andante
III. Moment Musical: Vivo
V. Allegro non troppo e serioso


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