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38度線

1日は本当に24時間あるのでしょうか ?
そうだとすれば、きっと1時間は30分なんだ

彦島地名考:水門

2006-04-22 23:34:00 | 郷土史探訪
水門(すいもん)

時たま通るこの水門に対しては、取り立てて特別な思いは持ってなかったのですが、よくよく考えてみれば水門の向こう側は玄界灘に続き、こちらか側は瀬戸内海に繋がっているわけです。
そう考えれば意味ある地点なわけです。
この地名は昭和11年、ここに水平開閉式の閘門が作られたときにつけられたものだと思われ、彦島の地名の中では新しいものです。
水門を隔てた海面の水位差が大きいことなどにより運用上の問題もあって、昭和57年現在の上下巻上げ式に架け替えられました。

写真は2基ある水門の手前が上がっている状態で、左の船が水門から出て、右の船が入っていくところです。
水門が上がって船が通過する時間帯は、水門上に設置された道路を通る車両は通行止めになります。

2006.4.20
2006.4.20

彦島の十二苗祖

2006-03-08 13:32:00 | 郷土史探訪
全国どこにも、その土地特有の姓が存在するようです。
彦島にも河野、植田、百合野などが多いようですが、これらは皆平家の子孫だと思っていましたが、これについては自分自身の思い込みがどうやら怪しくなってきました。

いままで幾度か紹介してきた「ひこしま発展誌(下関信用金庫発刊)」によると、平家滅亡後、彦島に居住したこれらの落ち武者は源氏方と平家方に分けられるといいます。
そして、河野、和田は源氏方、植田、岡野、百合野、利根、富田は平家方なのだそうです。
したがって彼らは敵味方の間柄でありながら、今は同じ境遇にあることから共生の道を選んだのであろうというのです。

これら河野一族から始まった武士の移住者の姓氏(河野、園田、二見、小川、片山、柴崎、植田、岡野、百合野、和田、利根、富田)を十二苗祖といい、彦島開拓の祖というべきだと、この誌ではいっています。


巌流島 第二弾

2006-02-28 23:59:00 | 郷土史探訪
先にUpした巌流島の写真が、今ひとつ状況説明を欠いていたので、きょう改めて撮影ポイントを捜し求めてきました。
前回の江の浦町から更に南の地点、弟子待町へ行くことにしました。
江の浦町から撮影したときは民家のベランダから撮つさせて貰ったのですが、その道はそこで行き止まりで、きょうは山ひとつ廻った反対側から行かなければなりません。

海岸近くの山道を撮影ポイントを求めて移動中に、犬を散歩させていた地元の方に訳を話すと、親切に道を案内してくださるとおっしゃていただき、お言葉に甘えることにしました。
そして、お気楽さんの写真のほぼ真反対側から撮ったのが、上の写真です。

もっと俯瞰で撮りたいので上につながる道を尋ねたのですが、どうやらそれは無いそうです。
それでも諦めきれずに、一旦そこから降り元来た道へ出て山の反対側から登ってみることにしました。
ようやくたどり着いた場所が、最初の撮影地点の真上あたりで、この低い山の頂き付近です。
ここからだと、この島の位置関係が分かりやすいと思います。

下2枚の写真で、巌流島の手前が撮影地点の弟子待町、対岸の関門橋を挟んで右側が北九州市門司区、左側が下関市です。
関門橋の先には満珠干珠の島々があり、この海峡一帯で源平最後の決戦がおこなわれたのです。

小さくて分かり辛いのですが、下の写真巌流島のほぼ中央に佐々木小次郎と宮本武蔵のモニュメントが写っています。

2006.2.28 巌流島全景
2006.2.28 巌流島全景俯瞰
2006.2.28 巌流島中央部俯瞰

彦島地名考:巌流島(舟島)

2006-02-25 14:24:00 | 郷土史探訪
巌流島(がんりゅうじま)

[ 東経130°55′57.51″北緯33°55′47.75″]
これが巌流島の位置です。

この島はもともと5千坪ほどの広さであったのを、大正年間に対岸彦島にあった三菱合資会社(現三菱重工業株式会社)が大正年間に埋め立てをして、2万6千坪の広さになった。もとは舟の形をしていたので舟島といっていたが、慶長17年、宮本武蔵と佐々木小次郎が試合をして小次郎が負けて以来その号巌流の名で呼ぶようになった。

お気楽さんの写真に、触発されて巌流島の写真を撮ってきました。
お気楽さんの写真3枚目巌流島を右方向、彦島から撮りました。
上の写真が島のほぼ全景ですが、右端が少し切れています。 ワイコンがないのでこれ以上引けません。
手前は彦島江の浦。 後方対岸は北九州市の門司で、左端に関門橋を隔てて下関市の「火の山」が遠くかすかに見えています。

下の写真は撮影地点を変えて撮った上記の左端部分で、当初は凡そこの部分だけだった島を埋め立てたものです。
後方に見えるのは関門橋

2006.2.25 巌流島全景
2006.2.25 本来の巌流島

彦島地名考:福浦

2006-02-19 23:35:00 | 郷土史探訪
福浦(ふくうら)

この地福浦港西の対岸には海賊泊があり、海賊の根拠地であったといわれています。
徳川時代には北前船の風待ち、潮待ちのための天然の良港だったそうです。
参勤交代のときに肥前の鍋島、肥後の細川、薩摩の島津などの大名が出府や帰路の運搬に船を使ったのでこの港に寄港したそうで、その船宿として肥前屋、肥後屋、薩摩屋等の名が残っていたそうです。
また北前船が北陸や北海道の豊富な特産品を大阪に運ぶには、太平洋を通らずに日本海をを通り瀬戸内を経ていたので、その船が往復とも福浦に寄港、しかも北前船は追い風でなければ走れないところから、風待ちで長期停泊することになり、大変な賑わいを見せたといいます。

*「ひこしま発展誌:下関信用金庫発刊」より

彦島地名考:田の首

2006-02-18 21:04:00 | 郷土史探訪
田の首(たのくび)

昔は今の平地部分が入り海になって港の形をつくり、 田の首八幡宮のある丘が突き出して、ちょうど亀の首のように見えたので「亀首」といっていたのが、訛って「田の首」になったということであります。
 散木集の歌に「たつ(田鶴)も居る亀の首より漕ぎいでて心細くも眺めつるかな」とあります。この「たつ」とは鶴のことであります。昔は鶴が降りてきたようであります。
 西側の海岸に出張った所を「金が弦」と申しまして、昔その名の通り金の蔓が生えていたと言う伝説があります。また「ヘイゲンカク」「平家屋敷」などの名前も残っておりますが、古いことはどうもよく分かりません。
 幕末以降から軍事には重要な所となり、小倉戦争の時には弟子待同様台場に敵艦から激しい砲火を浴びたのでありますが、堂々たる杉山(筋山)の砲台はおおいにその威力を発揮し、明治以降も海峡の重鎮でありました。
 なお、田の首の沖合には鳴瀬、それから西方大山の岬には俎板瀬があって、航海者をおおいに苦しめたのでありますが、今は航路整備のお陰でそのようなことはなくなっております。
 以前は田の首の所轄でありました塩浜町は福浦湾に面しておりまして、その名の通り古くから塩田があり、明治時代まで操業していたものであります。

*「ひこしま発展誌:下関信用金庫発刊」34ページ 原文のまま

彦島地名考:南風泊

2006-01-05 22:57:00 | 郷土史探訪
南風泊(はえどまり)

南風泊市場といえば、ここから出荷されるふく(ふぐを下関ではこう呼びます)は全国ブランドとして有名です。
正月4日の初せりは毎年テレビで放映されもはや風物詩となっていますが、南風泊の地名は全国に数箇所あるようです。

彦島にある南風泊は渡瀬とその北に位置する竹の子島に囲まれた湾をいいます。
帆船時代南風を避けるのに天然の良港であったことから呼ばれた名前で、北前船の盛んな時代には遊女屋も五・六軒あったといわれます。

その竹の子島は昔南北二島に別れ北を鬼が島といっていたが、これは海賊に関係があるだろうといいます。
その南北の島の間がわずか10間余りであったのでいつの頃からかつながって一つの島になったのだといいます。 *「下関市史・原始-中世:下関市発行」 49ページ

彦島地名考:海士郷

2005-12-27 23:08:00 | 郷土史探訪
海士郷(あまのごう)

この地は本土側の伊崎町の対岸にあって、もとは天川(あまかわ)と呼ばれていました。
了俊の別称を持ち武家百人一首にも登場する近江の武人、今川貞世の著「道ゆきぶり」には、「ふくらの島よりつかひきたり、小舟にて天川といふわたしをして参りたいと申ししかば…」と書き著しています。
また、1979年下関文書館発行の「長門国志」(著者:中村徳美)には.「天川は海部郷なり、三代実録貞観元年の条に長門国医師従八位下海部男種麿と見ゆ、この氏人の祖此国の海人部に定められて此所に住せられし故に地名になりけん」とあります。 *1

1157年河野家の最高を図るべく彦島の地を隠れ場所に選んだ河野通次(伊豫水軍の祖・越智高縄城主河野通清の末裔)ではありましたが、頼みとした参謀が病で倒れたこともあり再興を諦め、この地を子孫の安住の地と定め、ある者は農夫となりまたあるものは漁夫となり、そのうち漁夫となったものが生活の地としたのが海士郷だということです。 *2

*1「下関市史・原始-中世:下関市発行」 49ページ
*2「ひこしま発展誌:下関信用金庫発刊」から要約

彦島地名考:弟子待

2005-12-20 23:10:00 | 郷土史探訪
弟子待(でしまつ)

12月16日に「彦島地名考」と題して記事を投稿しましたが、その彦島に関わる地名を逐次考察していきたいと思います。
第1回目は「弟子待」です。

宮本武蔵と佐々木巖流が巌流島(舟島)で決闘したときに、巖流の弟子たちは舟島に渡って助勢することができないので、ここに集まって待っていたというので、弟子待という名ができたといわれていますが、どうやらこれは怪しい説だとといいます。 

この地は昔から良田があって天長七年「勅旨田」として押収されたのだといいます。
「勅旨」を「テシ」と読み、田の区画を「マチ」と言うのでテシマチと呼ぶようになり、後に「弟子待」の当て字が使われたものだというのが真実なのではなかろうかということのようです。 *1

なお、この後段の「勅旨田」のくだりは「頻聚國史」に、その記述を見ることができるようです。 *2

これは余談ですが、北海道東部に弟子屈町(てしかがちょう)という町名がありましたね

*1 「ひこしま発展誌:下関信用金庫発刊」から要約
*2 「下関市史・原始-中世:下関市発行」 48ページ

彦島地名考

2005-12-16 23:36:00 | 郷土史探訪
「彦島」の地名についてこれほどまでにこだわる必要はなかったのですが、「彦島」について少し調べておこうとの思いからググッたところ、上位に「日子の島」が多数ヒットしました。
自分の知識の中に「彦島」=「日子の島」という図式はありません。
そこで「ひこしま発展誌」(既出)をつぶさに読んでみたのですがそのような記述は見つかりませんでした。
しからずんばと図書館行きに相成ったわけです。

「ひこしま発展誌」(P5-P6)によれば「彦島」の呼称の変遷は明治以前までは「引島」(ひきしま)とよばれていたが、文久年間に毛利藩がこの地に砲台を築くことになり「引島」の地名は「退く」につながり、軍事上縁起が悪いというので、「彦島」に改め今日に及んでいるというのです。

日本書紀の仲哀記に「引島」の記述があり、平家物語の中にも「平家は長門の国引島にぞつきにけり」というくだりがあり、これらの時代には「引島」と呼ばれていたと思われます。
そして、先のくだりのごとく文久3年「彦島」に改めたことは、長府藩主毛利公の名指しであったことは藩の記録にあるといいます。
こうして現在まで引き続き「彦島」の地名が使われているようです。
勿論これには異説も存在しますが、「日子の島」なる呼称は調べた限りにおいて見出すことはできません。

思うにGoogleでヒットした「日子の島」は互いに相互リンクされていて、案外管理人も同じなのではないのかと疑念を持ちました。
いずれにしても歴史が風化して、一部で伝説化しているのでその真実は定かではありません。


図書館に嫌われた ?

2005-12-14 23:29:00 | 郷土史探訪
12月6日の掲載記事で紹介した[ひこしま発展誌]にはGoogleで検索した「彦島」=「日子の島」なる記述が見つからないので、そこらあたりをもっと詳しく調べようと思い立ち図書館にいってみようとしていたのですが、天候が悪くて一週間以上経った先週の金曜日にやっといくことができました。
よほど図書館に嫌われたものだと嘆いたものです。

「彦島」のことを調べるのだから彦島図書館に限るとばかりに勇んで出かけました。
しかしどうしても肝心なことは見つからず、図書館の職員の方にも探すのを手伝っていただきました。
親切に三人がかりで探してくださいました。
ありがたいやら申し訳ないやら、その節は本当にありがとうございました。

ご協力と努力の結果、その糸口らしきものが「下関市史・原始-中世](下関市発行)に掲載されていたので貸し出しを受け今読んでいるところです。
そこらあたりのことはおいおい記事にすることとして結論を先に書くと、「広辞苑」に「彦」という字は「日子、つまり男子の美称」であると書いてあり、「徳行のすぐれた人」とも記されています。
どうみても今まで調べたかぎり、これ以外には「彦島」と「日子の島」を関連付けることができません。


Google VS Yahoo!

2005-12-09 23:59:00 | 郷土史探訪
思い込みの怖さ !!

検索エンジンには、大きく分けてロボット型とディレクトリ型があります。
Googleは前者、Yahoo!は後者であることは広く知られています。
38は従来Yahoo!を主に使ってきましたが、7月にブログを開設して以来専らGoogleを使うようになりました。
最大の理由は検索速度が速いことです。
そして手頃な「Google検索の秘伝書」を入手したことでいままでなかなかヒットしなかた事柄を検索できるようになったものです。

ところがこれに頼り過ぎたためにとんでもない落とし穴にはまってしまいました。
「ひこしま発展誌」(12月6日記事)と出あって彦島の歴史や地名に興味を覚え、「彦島」をググって(Googleで検索)いくと「日子の島」が上位に多くヒットするので「彦島」=「日子の島」との疑念がわきそれを調べているうち多くの日時を費やしました。
きょうやっとの思いで図書館から「下関市史」を借りてきて、それなりの意味も理解しました。
あらためてYahoo!で「彦島」を検索し上位にヒットした内容の大きな違いに驚ろかされたものです。

ロボット型とディレクトリ型の大まかな仕組みの違いは理解していましたが、いままで使ってきた体験上では両者の検索内容にそれほど大きな違いは感じなかったのです。
ところが今回の件では愕然とするほどの違いがありました。

Googleを使うようになって、それまで検索できなかったものが容易に検索できるようになったことでそれに頼りきっていましたが、ヒット数の多さこそがロボット型の特徴であることを頭では理解していながらその便利さにかまけてついつい失念していました。
勿論Googleは優れた検索エンジンであることには違いありませんので今後は両者をうまく併用すべきだとの教訓を得ました。

実際に今回の件で何が起こったかについては、また日を改めて記事をUpします。


ひこしま発展誌

2005-12-06 23:00:00 | 郷土史探訪
郷土史との出会い

9月23日の記事で下関市彦島に平知盛の墓所があるということを聞きそれを求めにいき、それがどうやら誤報だったことを書きました。
平知盛の墓所としては北九州市門司区の甲宗八幡神社のそれが有名ですが、下関市・赤間神宮の七盛塚もよく知られています。
平氏にはその名前の多くに「盛」の字が使われていますが、知盛を含めて7人の盛塚(実際に盛の字がつくのは有盛、資盛、経盛、知盛、教盛、盛継の6人)として合祀されているのがこの七盛塚です。
それ以外のものも含めてここには平家一門の14基の墓があります。
なおこの塚は墓碑ではなく平家一門の供養塔であるともいわれています。
それ以外に四国の高知などにも平知盛の墓所があるようです。

それらのことを調べていく過程で「彦島」の歴史について興味を覚え、知り合いを通じて地元金融機関が発行した「ひこしま発展誌」と出会いました。

この本は下関信用金庫が1957年11月から1958年6月にかけて、当時の知名士が彦島についての録音保存会で語られ同金庫に保存されていた内容をテープ起しして、平成13年11月15日に発刊したものです。(写真はその表紙)

この本にはとても興味ある内容がいろいろと記述されているので、後日折に触れてその内容を紹介していくことにします。



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