
失敗で落ち込んだ時は、厄落しに銭湯が最適!と母を誘って次男と3人で近所の極楽湯へ。

キムチラムネとか

たこ焼きラムネに焼きそばラムネ。


が兵庫県有馬郡塩瀬村生瀬(現在の兵庫県西宮市塩瀬町生瀬)で天然の炭酸鉱泉を発見しました。

ウィルキンソンの宣伝音楽「TANSAN」の表紙
「TANSAN TWO―STEP POLKA」
見開き2ページ。


のオーケストラで演奏家としてのキャリアをスタートさせました。

お風呂好きな母はうれしそう。
近所と言っても歩いてはいけないから。
久しぶりに行ったら大人600円になっていました。ちょっとびっくり。東京でも550円なのに!
まあ、仕方ないか。
お風呂は気持ちよかったし。
ラムネ祭りやってました。

キムチラムネとか

たこ焼きラムネに焼きそばラムネ。
私は飲まなかったけれど

「ちょっと飲む勇気無かったわ。」と普通のラムネ。
次男はゆずラムネ飲んでいました。
ともあれ少し気分浮上。
炭酸水については以前詳しく取り上げました。
イギリスの1769年ジョゼフ プリーストリーがビールの発酵時に発生する二酸化炭素が水に溶け込むことを発見し、製法を見つけます。
1771年にはスウェーデンのトルビョルン ベリマンが炭酸水を作り健康に役立つと言い出します。
その後マジャル人のイェドリク・アーニョシュ(1800年 - 1895年)が、ソーダ水の大量生産法を発明しました。
そしてハンガリーのブダペストに世界初の炭酸水工場を建設したことで、ヨーロッパ中に炭酸水が広まります。重曹を使って家庭用炭酸水製造機も広まります。
日本では1889年頃、クリフォード・ウィルキンソン

が兵庫県有馬郡塩瀬村生瀬(現在の兵庫県西宮市塩瀬町生瀬)で天然の炭酸鉱泉を発見しました。
そしてウィルキンソンのタンサンとして、日本国内外の27地域で販売します。
以来、炭酸水は日本でも広まりました。
このウィルキンソンの炭酸水宣伝のための音楽の楽譜が発見されたそうです。

ウィルキンソンの宣伝音楽「TANSAN」の表紙
「TANSAN TWO―STEP POLKA」

見開き2ページ。
記事を購入すると動画で全曲聴くことができます。
https://www.asahi.com/sp/articles/ASQ2X4J9BQ23PTFC007.html?iref=sp_photo_gallery_bottom
ー2022年3月4日朝日新聞
ー2022年3月4日朝日新聞
アルフォンス ハッセルマン(またはアッセルマンス、ハッセルマンスとも呼ばれています。)Alphonse Hasselmans(1845-1912年)ベルギーリエージュ生まれ、フランス パリ没

ハッセルマンは当初、1854年以来父ジョセフ・ハッセルマン(1814–1902)が率いていたストラスブール音楽院で学びました。
その後、シュトゥットガルトでゴットリープ・クリューガー(1824–1895)に、パリでアンジュ=コンラッド・プルミエ(1820–1884)に師事しました。
ブリュッセルのモネ劇場

のオーケストラで演奏家としてのキャリアをスタートさせました。
1877年にパリで8回にわたるソロコンサートを開催したことがきっかけとなり、パリの複数のオーケストラとソリストとして契約を結ぶことになりました。
1884年にプルミエが死去すると、ハッセルマンスが後を継ぎ、パリ音楽院のハープ教授に就任しました。
プルミエはカロリーヌ・ルイジーニを助手として迎え、ハッセルマンスは67歳でパリで急逝するまでその職を務めました。
ハッセルマンは、アンリエット・ルニエ、マルセル・トゥルニエ、カルロス・サルゼード、マルセル・グランジャニー、リリー・ラスキン、ピエール・ジャメなど、 20世紀フランスで最も重要なハープ奏者の世代を育てました。彼は1903年にフランス国籍を取得しました。

ハッセルマンの娘、マルグリット・ハッセルマン(1876–1947)はコンサートピアニストであり、長年ガブリエル・フォーレの愛人でもありました。
息子のルイ・ハッセルマン(1878–1957)は指揮者、特にオペラの指揮者として活躍し、アメリカに渡り、シカゴ市民歌劇場やメトロポリタン歌劇場で活躍した後、ルイジアナ州立大学の音楽教授に就任しました。
アッセルマンの「泉」op44
炭酸水みたいだなぁ…と思って😅💦
いろんな種類のラムネがありますね
初めて見るものばかりでした
確かに飲むには勇気が入りそうですね
ラムネの種類、私も驚きました。
勇気入りますよね。
いつか試したいですが…。