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トピアリー ブログ

日本のトピアリー文化のパイオニア
株式会社ネバーランドインターナショナル「宮崎雅代」公式ブログ

石川啄木ゆかりの親族末裔が並ぶ写真撮影会

2023年05月24日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。
トピアリスト宮崎です
盛岡文士劇を息子と一緒に観てきました。
文士=作家さんや文化人のお芝居ということ。
脚本、声の通り方、品のいい笑いが満載でそのレベルの高さに驚きました。
開幕前の名物「盛岡文士劇東京公演実行委員会」による口上には南部藩の末裔の方が登壇し重厚な雰囲気。

つづく盛岡市長はNYタイムスの『2023年に行くべき街52(52Place to Go in 2023)』において第2位に選ばれたことを連呼(笑)。
確かに!
世界各地の都市中でロンドンに次ぐ2位。
加えて岩手県でなく盛岡市ですもの、そりゃぁ盛り上がりますよね。

文京区長は文豪に愛され「終焉の地」となることの多い「文(ふみ)の京(みやこ)」を「最期はぜひ文京に」とアピール。
ホント政治家ってお話が面白い。
お二人は劇中にも現れて盛り上げてくれました。

▲アドリブ満載の
谷藤裕明・盛岡市長と
成澤廣修・文京区長

「一握の砂 啄木という生き方」という題目なので、おじいちゃま宮崎郁雨がどのように描かれているのかもちょっと気になるところ。
親族である私たちも知っているようでよく知らない部分を愉快にわかりやすく理解する機会となりました。

終了後、楽屋見舞いに伺うと「じっちゃんの名にかけて」金田一京助役を熱演したお孫様の金田一秀穂先生も満面の笑顔。
石川啄木、宮崎郁雨の曾孫(ひ孫)と金田一京助先生のお孫様が並び、石川啄木ゆかりの親族末裔が並ぶ写真撮影会と相成りました。

▲左から
石川家、金田一家、宮崎家

宮崎郁雨を演じたのはIBC岩手放送のアナウンサー浅見氏。
おじいちゃまに雰囲気が似ているかも?
おばあちゃま(宮崎フキ)役の漫画家そのだつくしさんにも会いたかった。
 *石川啄木の妻節子の妹フキが宮崎家のおばあちゃま
義母の代理で宮崎郁雨関連の窓口となっていた私。
次の世代にバトンタッチです。
石川啄木と我が家の繋がりについてはこちらから。

▲宮崎郁雨を演じた
IBC岩手放送のアナウンサー
浅見氏(左)




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『源氏物語における笑いの探求~源典侍と末摘花の場合~』

2022年08月11日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。ハッピートピアリスト宮崎雅代です。
8月11日の誕生花はベニバナ(紅花Safflower)。
紅色の染色剤や食用油の原料となります。
雅名は末摘花。
お!末摘花!!
源氏物語で散々こき下ろされた姫君の名ではありませんか。
短大時代に源氏物語のゼミに籍を置いていた私。
卒論は『源氏物語における笑いの探求~源典侍と末摘花の場合~』でした。
卒論は2部作り、提出した卒論は後輩の参考にと貸し出します。
私の卒論はなかなかの人気だった、と伺いました。
大恋愛小説の切り口が「笑い」ですものね。
私は「気を持たせつつ値踏みする」平安男子の面々にモノ申したくて書いたわけですが…。
さて、どうでしたか。

▲和綴じにしなきゃと
〇十年放置している
卒論のコピー(笑)



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黄金の一人っ子時代

2022年05月05日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリスト宮崎雅代です。
快晴に恵まれた「子どもの日」。
「子どもの日」って我が子の健康を祈り、祝ってあげるものと思っていましたが、彼らも大人になりとても静かな「子どもの日」と相成りました。
でも、私も子どもだったんだよね、と気づき!?はるか昔を振り返ってみることに。

大都市間交通網が整備され、東京オリンピックや大阪万博(共に1回目)などの特需があった高度経済成長期の真っただ中、私は大阪府大阪市に生まれました。
生まれたのは2月。
「冬の水一枝の影も欺かず(中村草田男)」が大好きなのは
最も寒いときに生まれたから、かな?
それから1年10か月後には弟が誕生したので、自分の意識では「生まれたときからお姉さん」でした。
そしてず~っと「割に合わない立ち位置だ」とも思っていました。
ちょろちょろと動き回る弟に母はかかりきり。
弟はいたずら三昧なのに叱られるのはなぜか「お姉さん」。
こんなことがありました。
真新しいクレヨンをお揃いで買ってもらい私は「とっておきのことがあったら使おう」と大事に引き出しにしまいました。
ある日学校から帰ると、ぼきぼきに折れて手垢まみれのクレヨンが床に転がっているではありませんか。
犯人はもちろん弟です。
彼にも同じものが与えられたのになぜ私のものに手を出すのか。
日々ため込んだ小さな不満と共にぶち切れました。
身勝手な弟に対してはもちろん、私の話を聞こうともせず「まぁまぁしょうがないじゃない、小さいんだし」と事を納めようとする母にも絶望したのでした。
同じことを私がしたら、母は鬼のような形相で叱ったにちがいありません。
この「割に合わない立ち位置」意識を私はかなり長い間引きずっていて、「1年10か月は一人っ子だった」ことに全く気付いていませんでした。
そこで、ちょっと振り返ってみることにしました。

私の両親は共に北海道の出身で、近くに頼る親戚もなく母方のおばあちゃんが
お産の手伝いに来てくれたそうです。
そして生後2か月後には慶事に参加する両親と共に青函連絡船に。
「人生は移動距離できまる」(『移動力』長倉顕太著)という言葉がありますが、海を越え、空を超えてあちこち飛び回る今の私をつくってくれたのはまぎれもなく両親だ、と確信しました。
この時から何度も津軽海峡を渡ることになります。
幼いころの私は乗り物酔いが激しかったのに船だけは平気でした。
甲板に出て潮風にあたりながらキラキラと光る海をみていると自然に体が船の揺れに同調し、まるで船とお友達になったような気持になるからです。

▲父に抱っこされ、青函連絡船で北海道まで(生後2か月)

そして同じ年の夏休みには展望車に乗って高野山へ。
早くに父親を亡くし、結婚してからも妹たちの学費を仕送りしていた父は倹約家でした。
ところが、旅行となると大盤振る舞い。
予算を立てると袋にお金を入れて「ちまちまするな。楽しもう」という考え方でした。
また、船は必ず一等席。
豊富な海外出張の経験から飛行機はどの席に座っていても落ちたらおしまい。
船は事故が起きた時の救出順が厳格に決まっているから、と話していました。
そんな父が選んだ総持院は金剛峯寺に隣接する庭園の美しい寺院です。
もしかすると生後4か月で庭の美しさに目覚めたのかもしれない(笑)。

▲展望車(生後4か月)


▲高野山総持院


▲足元の植木はサツキかなぁ

そして極めつきはこれ!
生後8か月で体験した枚方パークの菊まつり!! 
しかもカラー(当時は高価)!!!
カメラが趣味だった父がポジフィルムを映写機用にマウントし、保存していた写真です。
私のDNAに菊造形のすばらしさが埋め込まれたのはこの時だ!と確信した瞬間でした。

▲千輪菊に囲まれて♪
 赤いカーディガンを着て
抱かれているのが私(生後8か月)


▲バラ園に立つ叔父のうしろに
「ひらかたパーク」の文字が写っています

いやぁ、ちゃんと可愛がってもらっていたんだなぁ、と実感しました。
そして思いがけず私の仕事の原点を知ることとなりました。
当社の広報からマイストーリーを書くといいですよ、と何度も勧められながらなかなか書くことができませんでした。
しかしながら、マイストーリーに向き合うことで母にゆっくりと話を聞くことができ、お宝写真を発掘し、他界して20年以上経つ父とも再会できたような懐かしい気持になったのでした。

▲在りし日の阪神百貨店
おしゃれしてお出かけした?
昭和の大阪駅周辺です



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石川啄木と宮崎郁雨

2022年04月13日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。
トピアリスト宮崎雅代です。
4月13日は石川啄木の忌日。
1912年の今日、肺結核により27歳で亡くなりました。
私の義父の父、つまり祖父宮崎郁雨(大四郎)は石川啄木の妻節子の妹ふきを妻に迎えており、彼とは親戚ということになります。
私が嫁に来たころ、沢山の写真を見せていただき「へぇ~」と驚いたものでした。

義父の死去を機に義母はそれらの写真を函館市中央図書館に寄贈し、その梱包作業を手伝ったことを思い出します。
理由は「次の世代に負担を掛けたくない」から。
確かに啄木研究者を名乗る方々がひきもきらず訪れ、義父母はその対応に忙殺されていました。

また、その折に「すこ~しずつ」開示した資料が減っていったことも記憶しています。
誰がどうしたなどわかるはずもないのですが。
学術を極める(と思い込んでいる)方々はいろいろだ、という事も知りました。

味噌製造所「金久」の坊ちゃまだった義父は、生活力のなかった啄木に関わることを嫌っていました。
しかし義父の従妹だった義母は丁寧に来客に接していました。
またその記憶は素晴らしく、まるで石川啄木の生き字引のような人でした。
あ“~なんであの時写真をスキャンしていなかったのか!
改めて宮崎郁雨のウィキペディアを見ると「あ、あの時の!」という写真が沢山でてきます。
これ、どこから入手したのかな。

ともあれ、おじいちゃま郁雨とそれを黙って支援した宮崎家のおかげで今の私たちは護られている、と感じるのです。
義母が話していました。
おじいちゃま(宮崎郁雨)だって当時は若造。
見守り支援したのはその家族だ、と。
文学を愛したおじいちゃま、ありがとう。


▲石川啄木記念館の
企画展ポスター(2015年)


▲妻フキとおじいちゃま
(中央と左)



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緑、みどり、Green!! 何がおきたの!?

2022年03月17日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリスト宮崎です。
昨夜の地震には驚きました。
あなたのお住まいの地域はご無事だったでしょうか。
最小の被害であることをお祈り申し上げます。
さて、3月17日は聖パトリックの祝日(St. Patrick's Day)。
アイルランドにキリスト教を広めた聖人、聖パトリックの命日です。
アイルランド系移民の多い世界各地では盛大にお祝いを行います。
この日を初めて知ったのは短期留学したロサンゼルスWestwood。
学校が終わり、バスの待ち時間に文房具屋さんにはいるとどこもかしこも緑、みどり、Green!!
何がおきたの !?
ホストマザーに質問するも、当時の(今も(笑))英語力では「キリスト教のお祭りらしい」と理解したにとどまりました。
何もかもが初めてのアメリカで初めて見た「緑のディスプレイ」は印象的で、今でも3月になるとSt. Patrick's Dayを思い出すのです。
私もアイルランドの国花、三つ葉のクローバーでお祝いしましょうか。

▲アイルランドの国花三つ葉のクローバー


▲三つ葉のクローバーのお花、シロツメグサ



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カッコイイ!!あれ、やってみたい

2022年01月18日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリスト宮崎雅代です。
1月18日は「118番の日」って何の数字?
これ、海上保安庁の緊急通報用の番号です。
実は私、小型船舶操縦免許証を持っておりまして…。
「なんで?」とよく聞かれるのですが若気の至りと申しましょうか、資格取り魔だったとでもいいましょうか。
「007シリーズ」のピアーズ・ブロスナン様がひらりとプレジャーボートに乗り込み、すい~っと追っ手をかわしていく姿に惹かれて「カッコイイ!!あれ、やってみたい」と思ったのが一番の動機だったと思います。
あれから20年以上「ペーパドライバー」の私。
海へのお誘い、お待ちしております(笑)。

▲Japan Coast Guardの船
よ~く見ると電光掲示板に118の文字が



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恐ろしく緊張していた入社式の日

2021年09月15日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリー宮崎です。
あなたは大阪寿司をご存知ですか?
9月15日は「大阪寿司の日」。
押し寿司などの大阪寿司は生魚を使わないことから、お年寄りにも安全であるとして、関西厚焼工業組合が制定しました。
私はこの大阪寿司にふか~い想い出があるんです(って大袈裟な)。

それは短大を卒業し、晴れて迎えた4月1日の入社式の日。
場所は淀屋橋(大阪市)からほど近い高麗橋。
この日辞令を受理し配属先の新人が昼休みに案内されたのは、部長・課長といった方々が居並ぶ重厚な会議室。
机の上に並んでいたのは、江戸時代から300年以上続く老舗「すし萬」の押しずし~!!

大好きなものは最後にいただく宮崎(あなたは先ですか?)。
「早くいただかないと」と焦る一方、自己紹介の順番が迫ってくるぅ。
食事を済ませた先輩諸氏が次々にお弁当の蓋を閉める音が響き、もたつく宮崎は楽しみにしていた1個を泣く泣く残したのでありました。

はるか昔のことなのに、「すし萬」の押し寿司を見ると
恐ろしく緊張していた4月1日の入社式の日を思い出して苦笑いするのでありました。

▲江戸時代から300年以上続く
老舗「すし萬」の押しずし



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911(nine-eleven)トピアリーと出会った頃のお話

2020年09月11日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリー宮崎です。
19歳の春、初めてアメリカ合衆国におりたった時、コーディネーターの方が言いました。
「まずこの番号を覚えておいてください。
911(nine-eleven)です。日本の110番です」と。
この数字をガツン!と思い出させたのが「アメリカ同時多発テロ」が起きた2001年の今日。
いろんな事が起きては消える日々ですが、始まったばかりの「人生」にワクワクしていた気持ちを大事にしよっと。


▲一応「学びの旅」でした(笑)


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短期留学とカリフォルニアポピー

2020年03月24日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリー宮崎です。
今日の誕生花はカリフォルニアポピー(花菱草)、花言葉は希望です。
お世話になったホストファミリーに「里帰り」し結婚の報告に伺った時にお盆をいただきました。
そこにはカリフォルニア州の花であるカリフォルニアポピー(花菱草)が描かれています。
短大生だった時に短期留学したロサンゼルス(アメリカ)はトピアリーと出会った場所でもあります。
そのような事を振り返り、「My History 宮崎の軌跡」をホームページに設けました。
お暇な時に読んでやってください(笑)。

▲カリフォルニアポピー(花菱草)が描かれたお盆

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初任給

2018年04月25日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリー宮崎です。
新年度初めての給料日ですね。
あなたは人生初!の初任給を受け取った時のことを覚えていますか?
私は両親に何をプレゼントしたか覚えていない。
とはいえ父に借金を返済していたことは覚えています。
学生のうちにど~しても渡米したくてアルバイトに励むも渡航費に手が届かない。
父を拝み倒して短期留学の費用を借りました。
これをチャラにするような甘い父ではございません(笑)。
当時の渡航費は高かったもんなぁ。
でもね。
お金では買えない沢山の経験を得、トピアリーと出会うこともできました。
あなたも飛び出してみましょうよ。
広い世界へ。

▲WDWのトピアリー



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夢いっぱいに成田空港から旅立った学生時代

2016年05月20日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリー宮崎です
1978年の5月20日に成田空港が開港しました。
過激な反対運動の様子が連日ニュースで流れていたことをうっすら覚えています。
高い空港税を支払い、夢いっぱいに成田空港から旅立った学生時代を思い出しました。
そして誕生樹はライラック。
札幌市の花ですね。
満開の今、札幌ではライラックまつりが開催されています。
フランス名はリラ、和名は紫丁香花(むらさきはしどい)。
素敵な香りを想像しつつ、今日も元気にまいりましょう。


▲ライラックの花(Wikipedia)


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トピアリーとの出会い

2016年03月18日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリー宮崎です
昨日はアイルランドにキリスト教を広めた聖人の命日を祝うSt Patrick's Dayでしたね。
私が初めてSt Patrick's Dayを知ったのはUCLAに短期留学していた時。
大学の正門から続く街中が急に緑色に染まり驚きました。
ディスプレイはもちろん、店頭の商品にクローバー☘マークが付いています。
そしてそれらは全て緑色!!

見るもの聞くもの新しいことだらけだったあの日。
お時間あれば、ごらんください。

▲トピアリーとの出会い


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石川啄木記念館

2015年08月08日 | マイヒストリー・プライベート編
おはようございます。トピアリー宮崎です
我が家で唯一Wikipediaに掲載されているおじいちゃま。
このおじいちゃまの「徳」のおかげで、家族が無事に生活をしていると近頃ますます感じるようになりました。
短大(文芸専攻でした)の講義で、その春朝日新聞を退社されて教壇に立たれた大谷晃一先生が「盛岡のぶらりちょうちん」と板書され「誰の事かわかりますか?」と尋ねました。
そしてその横に宮崎郁雨と書き
「この人がいなかったら啄木が名前を残す事ができなかったのです」と話された事をとても鮮明に覚えています。
のちにその家に嫁ぐなんて生意気盛りの18歳には想像もできませんでしたが(笑)。
石川啄木の故郷渋民村(現在は盛岡市です)にある石川啄木記念館でおじいちゃまの歌集や啄木、金田一さんたちとの書簡などが9月6日まで展示されています。
盛岡市内から少し山間の場所ですが、沢山の緑に囲まれたのどかな場所です。
ぜひ足を運んでみてください。

▲おじいちゃまの若い頃
後が石川啄木


▲晩年のおじいちゃま。穏やかな笑顔です


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OSZAR »