レモンと性と愛(PART 1 OF 3)

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デンマンさん。。。、久しぶりですわねぇ~。。。 どういうわけであたしを呼び出す気になったのですか?

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たまにはいいではありませんかァ~?
でも、なんだか意味深なタイトルの時に呼び出されると、なんとなく引いてしまいますわァ~。。。
引かないで どんどん前に出てきてくださいよ。 (微笑)
。。。で、どうして“レモンと性と愛”なのですか?
ちょっと次の作品を読んでください。
檸檬

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えたいの知れない不吉な塊が始終私の心を押さえつけていた。
焦燥といおうか、嫌悪といおうか、それが私の身に襲いかかってきたのである。
罹患した肺尖カタルや神経衰弱に起因したものでもなく、借金によるものでもない。
以前私を喜ばせた美しい音楽や詩の一節すら辛抱のできないものになってしまった。
どこに行ってもじっとしていられず、不意に立ち上がりたい衝動に駆られるのである。
こうして、私は街から街へ浮浪し続けた。
(中略)
生活が蝕(むしば)まれる前に私が好きだったところといえば、たとえば丸善があった。
陳列された香水瓶やキセル、小刀、石けん、たばこなどを見るのに小一時間を費やすこともあった。
結局、一番高価な鉛筆を一本買う程度の贅沢をしたものだった。
しかし、今となってはここも重苦しい場所となってしまい、書籍も勘定台も借金取りの亡霊に見えるのであった。
(中略)
そのころ、肺尖を煩ってはいつも身体に熱を帯びていた私にとって、握っている掌から身体に染み渡ってくる檸檬の冷たさは大変快かった。
その果実を嗅いでみると、産地であるカリフォルニヤの想像や、漢文の「鼻を撲(う)つ」といった熟語が浮かび、さらに深々と胸一杯に芳しい香りを吸い込めば、私の身体には温かい血のほとぼりが昇ってきて、元気が目ざめてくるのであった。
実際に、こうした単純な感覚が、昔から探し求めていたようなしっくりしたものであることは不思議に思えたが、一種誇らかな気持ちさえ感じながら、街中を軽やかに闊歩していたのである。
檸檬の色の反映を測ってみたり、この重さをすべての良いもの美しいものを換算してできた重量であるとか、私の諧謔心がばかげたことを考えさせた。
どこをどう歩いたのか、私が最後に立ち止まったところは丸善の前だった。
日ごろあんなに避けていた丸善が、そのときの私には簡単に入れるように思えた。
しかし、現実に丸善に足を踏み入れると、どうしたことか、私の心を持たしていた幸福な感情は消え失せ、画集を一冊手にとってバラバラとめくるだけでも大変な労力を必要とし、本を抜き出しては元の場所に戻すことさえできなかった。
以前は好きだったアングルの画集にまでも憂鬱を感じるに至り、抜いたまま積み重ねた本の群れを眺めていた。
そのとき、袂(たもと)の中にある檸檬を思い出した。
そして、本の色彩の上に檸檬を置くことを思いついた。
(中略)
不意に「本の城をこのままにしておいて、何食わぬ顔で外に出たらどうか」という第二のアイデアが起こった。
くすぐったい気持ちをもちながらも、私はすたすたと出て行った。
丸善の棚に黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた悪漢が私で、十分後には気詰まりな丸善が美術の棚を中心として大爆発をしたらどんなにおもしろいことだろうか、この想像を熱心に追求した。

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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)

これは梶井基次郎が1925年に発表した『檸檬』という作品なのですよ。 レンゲさんも読んだことがあるでしょう!?

ええ。。。 梶井基次郎は あたしの好きな作家の一人ですわ。
うん、うん、うん。。。 そうだと思いましたよ。
どうして、そう思われたのですか?
その前に、この作家のことを知らないネット市民の皆さんのために『ウィキペディア』から重要なところだけを書き出してみます。
梶井基次郎

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(1901年2月17日-1932年3月24日) 満31歳没
感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で、20篇余りの小品を残す。
文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。
死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。
その作品群は心境小説に近く、自らの身辺を題材にしている事も多いが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出した。
1929年(昭和4年)1月4日、父・宗太郎が心臓麻痺で急逝。享年59。
基次郎はこれまでの自分の贅沢(朝食にはパン、バターは小岩井、紅茶はリプトンのグリーン缶、昼食は肉食)による両親への経済的負担を反省し、「道徳的な呵責」を痛感する。
そのころから基次郎は新しい社会観の勉強に取り組みはじめ、マルクス『資本論』などの経済学の本を読む。
命を奪われてゆく貧しい人々のために「プロレタリア結核研究所」が必要だと熱い思いをめぐらす。
この頃から基次郎は、客観的な社会的小説を書きたいと思うようになるが、それは流行のプロレタリア文学のようなものではなく、人々の生活の実態をとらえたものでなければならないという意気込みを見せ、いまの文壇には「根の深いもの」が欠けていると日記に綴る。
1930年(昭和5年)1月、肺炎で寝込む。ゴーリキー、レマルクなどを盛んに読む。
2月、武田麟太郎の『ある除夜』に刺激されて、井原西鶴を読みはじめる。
基次郎は自分が「小説の本領」に近づきかけていると感じる。
母・ひさが肺炎で一時入院し、3月に母が再び腎臓炎で入院。
タクシーを呼んで母の看護に通う。4月、母が無事退院。
5月、弟・勇が結婚し、基次郎は母と共に兵庫県伊丹市の兄・謙一の家に移住。痔疾に悩む。
兄一家が川辺郡稲野村字千僧に転居し、基次郎もその離れに落着く。
1931年(昭和6年)5月、初の作品集『檸檬』が刊行された。
基次郎は、「回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひない」と評しつつも、そのプルーストの「回想の甘美」を拒否し、自分の「素朴な経験の世界」へ就こうとする姿勢を示す。
10月、発熱が続き、大阪の家に戻る。病状は重く、家族との同居が無理なために、25日に近くの住吉区王子町2丁目13番地に自分の家を借り、母が看病に通う。
1932年(昭和7年)1月、『のんきな患者』を、雑誌『中央公論』に発表。はじめての中央文壇誌掲載で原稿料をもらう。
正宗白鳥が『朝日新聞』、直木三十五が『読売新聞』の時評で取上げる。
2月、小林秀雄が雑誌『中央公論』で梶井基次郎を論じ賞讃する。
基次郎は病床で森鴎外の史伝に親しむ。
絶対安静の床で『のんきな患者』の続稿を考えていたが、3月、様態悪化。友人たちが見舞いに来る。
13日、狂人のように肺結核に苦しむ。日記が17日で途絶える。
23日、夕刻より意識不明瞭となり、夜、苦痛を訴る。頓服を要求し、弟・勇がやっとのことで求めてきた薬を飲む。
激しく苦しむ息子を母が諭す。
基次郎は死を覚悟し、「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と合掌し、弟に無理を言ったことを詫び、24日の深夜2時に永眠。
僧職にあった異母弟・順三が読経。25日、自宅で告別式。遺言により棺は茶の葉が詰められ、上部は草花で飾られた。戒名は「泰山院基道居士」。
出典: 「梶井基次郎」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

つまり、あたしのために わざわざ梶井基次郎の『檸檬』という作品を選んで 今日は文学の話をしようと思って あたしを呼び出したのですかァ~?

そうですよ。。。 (微笑)
なんだか わざとらしいですわ。。。 1月26日にデンマンさんが投稿した『レモンと孤独な老人』の中にも上の作品が出てきたではありませんかァ!

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■『レモンと孤独な老人』

あれっ。。。 レンゲさんは上の記事を読んだのですかァ~?

もちろんですわ。。。 だってぇ~、上の記事の最後の“レンゲの独り言”に あたしも出てくるではありませんか!
確かに。。。、言われてみれば、その通りですよ。。。 (笑) でもねぇ~、実は、『檸檬』という作品はレンゲさんと対談するために選んだ作品なのです。
信じられませんわァ。
あのねぇ~、『檸檬』という作品の中で 僕が強調するために赤字にした箇所を見てくださいよ。

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えたいの知れない不吉な塊が始終私の心を押さえつけていた。
焦燥といおうか、嫌悪といおうか、それが私の身に襲いかかってきたのである。
(中略)
丸善の棚に黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた悪漢が私で、十分後には気詰まりな丸善が美術の棚を中心として大爆発をしたらどんなにおもしろいことだろうか、この想像を熱心に追求した。

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この部分を読んで、レンゲさんは 何か思い当たるところがありませんか?

「家畜人ヤプー」という本の表紙が貼り出してありますわねぇ~。。。
そうです。。。 それがヒントです。
「家畜人ヤプー」は あたしの気に入った作品の一つですわァ。
そうですよ。。。 だから、ヒントとして その表紙を貼り出したのですよ。
(すぐ下のページへ続く)