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もうひとつの部屋

昔の記憶に、もう一度会える場所にしようと思っています。

現実とつながれない朝

2025-06-04 09:22:02 | ひとりごと

朝、目が覚めて

なんとか起き出しても

「昨日のつづき」にならない…

そんな日が、今でもある。


べつにウツっぽいわけでもなく

気分がはっきり沈んだり

重力が急に大きく?なったりとか…

そこまでのことじゃないのはわかる。


でも、毎朝するようなこと、たとえば

台所をちょっと片づけたり

着替えて散歩に出ようと思ったり

そんななんでもないことが

まったく自分と関係ないようで…

昨日までしていたことが

自分からすっぱり切り離されて

知らない人の生活、人生?にしか

思えなくなるような感じ。


いつもはそういうときは

お天気が下り坂だから…とか

雨が振りそうだし…とか

気圧?のせいにしたりする。


なにか理由があった方が

自分の元気のなさを、自分に対しても

たとえば若い友人に対しても

説明しやすくなるから。


そういう説明があると

一旦、そのことを片づけられる。


で、いやいやながらも

ヨクワカラナイ「今日」を始められる。

 

そんなふうにして一日が始まる朝が

最近は増えてきた気がする。


でも……


昔のように、何倍にもなった重力に

のしかかられて床に圧しつけられ

身を起こせない… なんてことはなくなった。


見える「世界」と自分が

全く無関係になることもなくなった。



それらを思えば、これくらいのことは

ユルさなければ…


今日もそんなことを思いながら

やっと起き出すことができた(^^;

 

 



移った「はてな」はこちらです。

https://muma-muma.hateblo.jp/

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絶対遅刻!ってときに限って

2025-06-01 18:17:35 | 若い友人との会話

「もうギリギリ、間に合わないってときに限って

なぜか遅刻せずにすむんだよね。

今日はラク勝、ゆうゆう間に合うってときは

あれほどいつも遅刻するのに(苦笑)」


わ~ わたしの映画と一緒。

この頃はもう、映画は毎回ほぼ遅刻なの。

昔は遅刻なんてしなかったのに。


「不思議や~なんでなんやろ」


危機感が足りないんかも。

って、危機感ってほどのコトやないけど(笑)


「やっぱり安心してると、ついつい遅くなる」


そうゆうモンだよね~

 

なんて話を、仕事に行く前の若い友人とした。

仕事と言っても、彼はボランティア(有償)で

以前スーパーみたいな場所で

バイトしてたときとは違う(らしい)


当時の彼は、遅刻どころか

オッソロシク早く出勤していた。

たぶん無遅刻で無断欠勤なんて考えられない

優良バイト生だったはず(想像)



……とここまで来て、わが身を振り返る。

 

彼のことはよくわからないけれど

わたし自身は、こどもの頃から

どうしたら遅刻するものなのか

正直ワカラナイ人だった。


まして好きな映画に遅れるなんて

もったいなくて出来ない。


それなのに、いつごろからだろう

自主上映会には必ずと言っていいほど

遅刻してしまうようになった。

(お金払う側だからいいよね…とでも

厚かましく思うようになったのだろーか)


きっかけとしてひとつだけ思い当たるのは

化学物質過敏がひどくなったころ

「ギリギリに行って、大急ぎで出る」のが

いちばん「人」(香料その他のカタマリ)に

接触せずに済むと思ったこと。


でも、それも十数年のうちにずいぶん良くなって、

あまり気にしなくてもよくなった。

「遅刻」が頻発する理由には…ならないと思う。

 

ここまでボンヤリ考えるうちに、ふと

「危機感」というキツイ言葉が口から出た理由が

うっすらわかった気がした。


「危機感」などというものがあったとしたら

(若い友人ではなく)過去のわたしの方だったと。



わたしが育ったのは

「いつ叱責が飛んでくるかワカラナイ」

こどもとしては安心できない?環境だった。


オトナはいつ怒りだすかワカラナイ。

何がきっかけで叱られるかワカラナイ。


なので、家から出るとき(家に居てさえ)

ある種の緊張感はついて回った。


「〈遅刻〉なんて絶対ダメ!」

と思い込むように育ったわたしは

遅刻の仕方がワカラナイという

ヘンなこどもだったと思う。


間に合うように、早めに準備して

家を出るのがあたりまえ。


「遅刻なんてしたら、とんでもなく

悪いコトが起きるにちがいない」


それはほとんど「危機感」を伴うもので

わたしはそういう多くの細かい事柄に囲まれて

育ったのだと、今になって思う。

 

ということは、平然と遅刻する自分は

過去(の呪縛)から自由になったという

ことなのかもしれない。


なあんて、遅刻の正当化に努めてる自分に

ちょっと笑ってしまったけど。

 

若い友人もこどもの頃

わたしが感じたような緊張感・危機感を

家で感じていたんじゃないといいけどな~(^^;

 

 

 

 

移った「はてな」はこちらです。

https://muma-muma.hateblo.jp/entry/2025/06/01/185520

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ブログを始めた理由、やめられない理由 

2025-05-25 14:28:16 | ひとりごと


最近たまたま過去記事を読み返したら

面白いのにオドロイタ。

自分で書いたのを、自分でオモシロイもないもんだけど

スラスラ読めて、どんどん次も読みたくなる(^^;


若い友人にそのことを言うと


「自分で書いたのは面白いよ。

自分で書いたんだから、よくわかるし」


面白くて当たり前といった顔の友人。


アナタも自分で書いたの読むことあるの?

と聞くと、ちょっと答えにくそうだったけれど

小さく頷いて、そのあと口早に言ったのは


「日記ブログなんて、絶対面白いはず。

そのときそのときで、何思ったかなんて

どんどん忘れてしまうのが普通なのに

後から読めるんだもんな~(笑)」

          

          

実はここまでは、2年前に書いたのが

下書きファイルに残っていたもの。


途中まで書いて放り出した(らしい)けれど

放り出したのがなぜかは、思い出せない。


それとは別に、そのときアタマにあったことで

覚えていることは少しだけある。



わたしが、このブログを「もうひとつの場所」として

12年前、わざわざ「眺めのいい部屋」とは別に始めたのには

はっきりした理由(目的)があった。



「あまりに「暗い記憶」としてしか思い出せない

自分のこども時代。でも、こどもなんだから

もっと明るい出来事があったはず。

楽しいこと、嬉しかったことも、きっと」 

「だから、今覚えている自分より

ちょっだけ明るい「自分」を主人公にして

日記を書いてみたら… 過去の記憶が

ほんの少しでも明るく見えてこないかなあ」

 

この「もうひとつの部屋」の最初の方にある

「ねねの日記」(カテゴリーとしては「E市での記憶」)

という記事は、そうして書かれた。


「書かれた」なんて妙な?言い方をするのは

「作りものの主人公」だけれど

起きているのは「事実」そのままだから。


自分で書いたのだけれど

自分で書いたんじゃないような気がするくらい

「手が、どんどん勝手に書いてくれた」から。

 

今思うと、「眺めのいい部屋」で、過去の出来事

もう会うことのない人たちのことを書くのは

当時のわたしにとっては結構タイヘンな作業だった。


エネルギーも時間も、相当たまらないと

出来なかった…という意味で。

 

でも、こちらの「もうひとつの部屋」では

そんなたいへんさを感じたことがなかったと思う。

 

そして、大変だったことも、そうでなかったことも

どちらもわたしにとっては、「ブログを書く理由」に

直結していることだった… というのに

今、自分でもちょっと驚いている。

 

物事を論理立てて整理・説明したり

自分なりに解釈して、次につなげたり…といった

作業をしたがらないわたしのアタマでは  

ここまでしかワカラナイけれど…

 

今回、gooからのブログの引っ越しなどせず

過去記事も全部消えて、オシマイになるのもいいかも…と

半ば本気で思ったりした。

 

なのに、こうして今(はてなでも)書き続けているなんて

ずいぶんわたしもメンドクサイ人やなあ…と改めて思う。

 

この先もこれまで同様、いろんな人、いろんなモノに

助けられて、支えられて、なんとか人生が続くんやろな……


そんな気がする。

 

 

 

(タイトル 2023年5月30日)

 

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「そうかあ… あこがれだったんだ、あれは」

2025-05-20 13:10:11 | 若い友人との会話

最近、文旦(ブンタン:地元の柑橘)の皮をむきながら

若い友人が言ったひとりごと。

文旦で思い出すのは、やっぱり

○○村にいた頃なんだよね。


あの頃、ほんと~に思った。

「文旦って、いいなあ」


自分でもヨクワカラナイまま、ずうっと

果物として(味が)好きなんだと思ってたけど

そうじゃないって、今わかった。


「あれはあこがれだったんだ」


果物として好きだったんじゃなくて

この… なんていうか、たくましさ?

「タフさ」に憧れたんだな、ぼくは。


皮が厚くて、重たくて

放っておいても長持ちして

少しくらい手荒に扱っても

全然大丈夫。

 


「ぼくは、あの頃

ほんと~にそうなりたかった」


そう言いたげに見えて、でも

そんなことはひとことも言わなかった友人。

 

いつもどおり、ただ文旦の皮をむいて

中身だけ取り出したのを

わたしにも分けてくれた。


なんでもないことのように。



その「村」から「大都会」に引っ越した後

彼は学校に行かなくなった。


親二人は、その理由が薄々わかっていながら

いまひとつ(全然?)わかっていなかった。



黙って、文旦の薄皮をていねいにむいていた

友人の横顔を思い出す。


文旦にあこがれた少年は

もうすぐ40歳の誕生日を迎える。

 

 

 

 

 

引っ越し先は以下の通りです(「はてな」に移りました)

https://muma-muma.hateblo.jp/


当分は記事を書くとき、gooとはてなの両方に載せます。
(なるべく長くgooに居たいので。めったに更新しないブログですが(^^;)

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うちでは毎日、誰かと誰かがケンカしてたけど…

2025-05-06 10:37:15 | K市での記憶


家の中で「けんか」ばかり

見せられながら育つって

ひどい環境やなあって言われそう(^^;


でも、こどもの頃のわたしの家は

そんなひどい暮らしじゃなかった。


両親が詐欺に遭って借金に追われてても

「食べていけない」ほどの貧乏は

一度も経験していない。


ただ… 毎日、親子喧嘩か夫婦喧嘩を

見ていた気がするだけ。


(いや~「気がする」なんてモンじゃ

なかったよォ)



まずは「親子喧嘩」について。


母は、自分からきっぱり

「わたしはあのヒトが嫌いなの」


あとは独り言のように、声を落として

「仲の悪い親子っていうのも

世の中にはあるもんなんよ」


祖母の方は、母が自分を嫌っているなどと

想像もしていなかったのか、或いは

そんなことは「大したことじゃない」

大事な大事な一人娘…とだけ思っていたからか

母がどんなに頭ごなしに

まさに「喧嘩腰」の物言いをしても

めったに言い返すようなことはなかった。


「一年の半分ほどは同居する」ようになって以来

母の独り相撲のような、ヒステリックな叱責を

姉もわたしも、ときには父も

聞かされる羽目になった。


父は、何とか穏やかに話ができるようにと

いろいろ気を遣ってみたのだという。


「でもダメなんだよな。

何をどう言っても変わらない」


そして、あるとき言った。

「結局、一卵性親子のケンカなんだから

他人が口出しして改善するような

ものじゃないんだ(苦笑)」



夫婦喧嘩の方は、もっと長い年月

姉もわたしも「つき合わされた」と思う。


といっても、こちらは(私の眼には)

「仲がいい」のがわかっていた。


ただ、「理想主義者」の父が


「女の人も、自分の思うことは

はっきり口に出していいんだ。

思うことは言うべきなんだよ」


19歳で、25歳と結婚した母は、

言われる通りにしないといけないと

思い込んだ?のかも。


2人の娘が10代になる頃には

夫婦の間で、さまざまな「意見の相違」をめぐって

父言うところの「ディスカッション」を

毎日繰り広げるようになっていた。


(でも… 「口喧嘩」にしか見えないことも

多かったな~)



母が感情的になって、激しい言葉が出ても

父は冷静に考えた?返事をするので

大抵はソコソコのところで落ち着いたんだけど…


そういえば

急須が空を飛んだことがあったっけ。

(フタだけ割れた)

投げたのはもちろん父の方。


でも急須はいいけど(こっちは驚いただけだし)

「手が飛んだ」のも一度見た。


このときは、母が涙ぐんで

「なにも叩かなくてもいいじゃない…」



どちらのときも、父は

「とにかく機関銃みたいに文句言うのを

止めなきゃいけなくなったからだよ」


でも悪かった… みたいなこと

あのとき言ったかなあ。言わなかった気がする。

わたしには、父がなんだか悔しそうに見えた。

手を出したせいで「母に負けた」からじゃなくて

「自分に負けた」って感じの顔。



うちではいわゆる「暴力」は

見ることがなかったから、珍しくて

今でも覚えているだけ。


でも父は、男兄弟3人とも

「父親に殴られるのは珍しくなかった。

名前呼ばれたら反対向いて逃げろって

みんな言ってたくらい(笑)」


こどもが「ふたりとも女の子」だったから余計に

父もいろいろ考えて、努力してくれたんだと思う。



…… と、ここまで書いて思った。


「おかあちゃん、ねえ、あんなに

ピリピリしなくて良かったのに」


「あんなに怒ってばっかりの理由が

きっとあったんだと思うけど

いつ怒られるか、おねえちゃんもわたしも

毎日ビクビクしてたんだよ。知ってた?」

 

「ひとの口喧嘩、毎日見るのも聞くのもヤ!だったけど

そんなこと数に入らなかった気もする。

自分が怒られるかどうかの方が

よっぽど大事(おおごと)だったから」

 

ま、わたしは思ってた以上に

おかあちゃんに似てたみたいだから

息子たちに同じような思いさせたんだろな。


同じような思いさせないように

おねえちゃんもわたしも

気をつけてたつもりなんだけど

繰り返したことが結構ありそうな気がして。

 

でも、うちも「暴力は考えられない」家だし

ソモソモ、けんか毎日するほど

「仲のいい両親」でもないし。

 

若い友人たちが、自分の育った家のことを

なんて言うか… いつか機会があったら

聞いてみたい気もするけど

やめといたほうがいい気もする(^^;

 

 

 

 

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