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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『ルノワール』、揺れ動く思春期の生を見つめる秀作

2025年06月30日 21時25分19秒 | 映画 (新作日本映画)

 早川千絵監督の『ルノワール』が公開された。早川監督は長編映画デビュー作『PLAN75』がカンヌ映画祭「ある視点」部門新人監督賞特別表彰を受けて注目された。そして第2作の『ルノワール』は早くもカンヌ映画祭コンペティションに選ばれた。無冠に終わったが、今年の注目作に間違いない。地方都市(クレジットで岐阜で撮影されたと判る)に住む沖田フキ鈴木唯)は母親(石田ひかり)と父親(リリー・フランキー)と暮らすが、父親はいま入院中である。感受性豊かなフキはこの父の入院を通して、「大人の世界」に足を踏み入れていく。映画はその様子を1987年の「ある少女のひと夏」として提示する。

 冒頭がよく理解出来ないと思うと、それは夢だった。続いて学校で作文を朗読しているが、それは「みなしごになってみたい」という作文で、母親が学校に呼ばれてしまう。母は「勝手に親を殺すな」と叱るけど、フキにはほとんどこたえない。このフキを演じる鈴木唯(2013~)が実に見事で、驚くべき存在感で思春期の入口に佇む不安感を見せている。監督は影響を受けた映画として『ミツバチのささやき』『お引越し』『ヤンヤン夏の想い出』を挙げているが、特に相米慎二監督『お引越し』を思い出す作品。

(主人公を演じる鈴木唯)

 父が入院中だが、母は管理職になって多忙。父親はガンなので、特効薬を求めて怪しい療法に手を出したり、いろいろと大変だ。一人でいることが多いフキは、子どもの目で大人世界を探っている。マンションにいる女性(河合優実)と知り合うと、彼女の大変な話を聞く。英会話教室に通っていて、そこで知り合った友だちの家に行くと自分の家と全く違うのに驚くが、彼女も引っ越していく。そんな時に「伝言ダイアル」の存在を知り、つい電話してしまったりする。ちなみに「伝言ダイアル」は1986年から2016年までNTTが提供していたサービスで、固定電話からしか利用出来ない。「出会い系サイト」的に使われたケースも多かった。

(病床の父と)

 母もいろいろあることを娘は感じ取るが、忙しい母親とはなかなか話す時間もない。夏休みにキャンプファイアに行くとやはり楽しいけれど、家に帰るとふっと電話してつながった相手に会いに行ってしまったり。まさに揺れる少女の心をエピソードのつながりで、点描していく。題名はフランス印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールのことで、作中で主人公の少女フキが「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」を買って貰うエピソードがある。そこからこの映画も「印象派」的な作品とする論評もある。

(石田ひかりの母と)

 先に挙げた『お引越し』は、両親が離婚する家庭を娘の視点で描いた。一方『ルノワール』は「父の不在」を娘だけでなく周囲にも視野を広げて見つめる。ただ原作のある『お引越し』の方が物語的にはまとまっていて、『ルノワール』はエピソード羅列的になっている。どっちが上とは決められないが、僕はフキが揺れながらも、どう変貌していったか、もう少し知りたいと思った。映画は詩的な映像を提示して観客に想像して貰う作り方。『国宝』『フロントライン』の重量級の圧倒的な物語を見てしまうと、幾分淡彩に見えるのは否定できない。そこが観客動員にも影響しているかもしれない。(あまりヒットしてない感じ。)

(カンヌ映画祭で)

 前作『PLAN75』は興味深い映画だったが、ここでは紹介しなかった。高齢者の描き方に納得出来なかったのである。製作当時80歳を越えている倍賞千恵子を75歳役に起用していたが、まだまだ元気そうで設定に納得出来なかった。今回の『ルノワール』は洗練の度合いが上がって違和感なく見られるが、鈴木唯の存在感をどう生かすかという観点では、『お引越し』の田畑智子の方が印象に強い。才能ある監督であることは間違いないので、今度は原作ものか自作じゃない脚本で撮ってみて欲しい気がする。

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映画『中山教頭の人生テスト』、小学校のリアルを描く

2025年06月27日 21時45分09秒 | 映画 (新作日本映画)

 『中山教頭の人生テスト』という映画の紹介。渋い脇役が多い渋川清彦が本格主演した「学校映画」の佳作。上映が少なく別にいいやと思っていたが、墨田区にあるStrangerという小さな映画館でちょうど良い時間にやってるのを見つけた。ある意味この映画は『フロントライン』の反対の映画で、今の小学校のリアルを気味悪いぐらい伝えている。監督・脚本を務めた佐向大(さこう・だい)は以前に『教誨師』(2018、キネ旬ベストテン10位、大杉漣の遺作)を作った人。

 「教頭」と言うんだから、これは東京の映画ではない。(東京は全員「副校長」である。)舞台になるのは山梨県南部の富士川町で、「地方」だからノビノビした環境で小学生が生き生きと勉学に励んでいる、かと思うと最後まで見るとやはり全国どこも同じだった。ある小学校に勤める中山教頭渋川清彦)は校長試験を受けようとしているが、校長が推薦状を書いてくれない。登下校の児童がうるさいといつも苦情の電話を掛けてくる住民がいる。理科室の蛍光灯が切れて今日は用務員が休暇だから何とかしてくれとか、体育館の外部開放がダブル・ブッキングしているとか何でもかんでも「教頭」のところに持ち込まれる。

(中山教頭)

 5年1組には、いま大きな問題があった。担任の椎名先生高野志穂)が地域行事でちょっとトラブって、鷹森校長(石田えり)が担任を外す処置を取ったのである。校内に代われる教師がいなくて、新しく若い黒川先生を採用したらしい。この黒川の学級運営が厳格すぎて生徒も萎縮している。保護者からは早く椎名先生に戻して欲しいと何度も要望されるが、頑として認めない。その5年1組で「いじめ」「不登校」などのトラブルが発生して、校長が黒川を叱責すると今度は黒川先生が登校しなくなってしまった。そこで椎名先生を戻すかと思いきや、なぜか絶対認めない校長は中山教頭に臨時担任を命じたのである。

(教頭、椎名先生が児童の話を聞く)

 これはいかにもムチャである。ほとんど校長のパワハラ。そもそも冒頭の朝礼シーンで校長のあいさつを見た瞬間に、この校長には問題あるぞと僕は見抜いた。若い教師には「ルール絶対視」「ゼロ・トレランス」的な対応を取る人もいるかもしれない。しかし、臨時採用の若い教員(なんだと思うが)の学級運営には校長は気を配る必要があり、支援と指導を欠かしてはいけない。保護者から問題を指摘されたら、「授業観察」を行って適切な助言を行う必要がある。僕の見る限り黒川先生の授業は異常である。

(自転車で通う中山教頭)

 5年1組で男児の「ケンカ」があり、事情を聞いた子の父親が「我が子が疑われた」と乗り込んでくる。また別の児童の机からお菓子の包み紙が見つかる。その女児は母子家庭で今までも親が学校に非協力で大変だったが、その時は学校を出てそのまま不登校になった。中山教頭はますます多忙を極め、校長試験の勉強も出来ない。数年前に妻を亡くし、その時は事故の知らせを受けながら授業を優先してしまい、一人娘とは今もギクシャクしてしまう。その不登校女児はその後外部で問題を起こし、校長はある決断をする。周囲も驚くが、僕もこの処置は常識外れだと思った。校長のリーダーシップには問題がある。

 まあ何の問題もない良い学校は、ドキュメンタリー映画ならあるかもしれないが、劇映画である以上何らかの問題発生は予想通りである。題名からしても、映画内では教頭先生が大変な目にあうと予想できる。実はここに前校長、今は教育長(風間杜夫)が裏で暗躍していて、現校長をバカにして中山に早く校長になれ、俺がなんとかしてやるとけしかけている。そういう所は地方の教育事情かもしれない。中山の家庭事情をはさみながら、ついに椎名先生がこのクラスに潜む問題の根本を突きとめる。まさに子どもの世界は奥深く、なかなか大人からは見えないものである。それは教員の力量には無関係だと思うが、学校にも問題があった。

 映画というか、どうしても教員事情に関心が向いてしまう。僕は小学校教員の経験はないけれど、「組織としての学校はどうあるべきか」には共通性があると思う。あいさつを繰り返させるが、それは良いけれど自分もきちんと大声であいさつしなければ。児童・生徒にだけあいさつを求めるのは教師失格である。理科室で教頭が蛍光灯を取り替えているのに、授業を続けている黒川先生も不可解。若いんだから自分でやれよ。(ちなみに僕は見回り中に切れている蛍光灯があれば、自分で取り替えていた。)

 それにしても「良い子」には裏があることも多く、僕も手こずったことがある。20代、30代ぐらいだと、若いというだけで教師が子どもとすぐ仲良くなれる側面もあるが、子どもの世界を見抜くには経験不足のことがある。最初にこの映画は『フロントライン』と反対と書いた。新型コロナウイルスという未曾有の新事態に、今までと同様の対応では対処不可能な現実が生じ、それにいかに向かい合ったかが『フロントライン』という映画。一方、『中山教頭の人生テスト』はルールが確立されている学校という職場で、ルールだけでは対応出来ない事態が起こったときに「間違った」(法的には間違っていないが、実際は不可解)対応を取る。

 目の前の人間に真剣に向き合うことがまず何よりも大切だと改めて思った。しかしながら、映画の展開はやり過ぎで、全体的な完成度を犠牲にしている。「佳作」にとどまるかと思うので、多くの人に勧めるわけではない。ただ小学校に勤める人、小学生の子どもを持つ人、全般的に教育に関心を持つ人は見て損はないと思う。それにしても、全国どこも同じだなあと思った。

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映画『フロントライン』、学ぶこと多い「コロナ禍」実話の映画化

2025年06月26日 21時22分55秒 | 映画 (新作日本映画)

 2025年は最近にない日本映画の大豊作年になっている。完成度の高いオリジナル脚本の実写映画が多いのが素晴らしい。最近では『国宝』が大ヒットして、僕が書いた記事もずいぶん読まれているが、吉田修一の原作である。(文庫で2巻と長いけど、スラスラ読めるから是非読んで欲しい。)そんな中で、『フロントライン』(関根光才監督)も忘れちゃいけない。2020年2月に横浜港に接岸したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号で起こっていた実話を丹念な取材で再現した映画だ。何だかもう思い出したくない気もする題材。自分でも見たくないような気もあったが、見逃さなくて良かったと思った。学ぶことが多い映画

 まあ大体の人はそれなりに覚えていると思うが、2019年暮れに中国・武漢で「謎の肺炎」が発生した。その後世界に広がっていくのだが、日本ではダイヤモンド・プリンセス号で船客の中に感染者が出たというニュースが初の事態だった。3千人もが乗る大クルーズ船で何が起こっていたのか。そして、患者の対応にあたるとともに、水際でウイルス流入を防ぐ役割を誰が担ったのか。当時は知っていたのかも知れないが、僕はもう初耳みたいなことが多く、初期対応に当たった「DMAT」の隊員の活躍に頭が下がった。「ディーマット」というのは、災害派遣医療チーム(Disaster Medical Assistance Team)のことである。

 神奈川県庁に集まった神奈川DMAT調整本部長の結城小栗旬)に厚労省官僚の立松松坂桃李)が出動をお願いする。「DMAT」の出動案件には災害や事故はあったが、感染症拡大は想定されていなかった。結城は当初難色を示すが、立松から「誰かにお願いするしかないんですよ」と言われて出動を決断する。「3・11」でも共に活動した仙道窪塚洋介)は船に乗り込んでリーダーシップを発揮する。また岐阜から参加の真田池松壮亮)は妻子を置いて参加したが、妻には絶対に自分のことを周囲に言うなという。この4人の男優の丁々発止が見どころで、近年にない「男のドラマ」。犯罪や政治じゃなくても、これほど濃密なドラマが作れる。

 次第に広がる感染者、長引くとともにコロナ以外でも疾患を持つ高齢者の不調が多くなっていく。船内の不満は高まるが、それらは今ではSNSで拡散されていく。マスコミは横浜港に集結し、船に出入りする人々の一挙手一投足を追いかける。そんな中で、あくまでも人命救助を最優先する結城と、ウイルスを国内に持ち込ませまいとする立松のせめぎ合いが激しくなる。この2人、つまり小栗旬と松坂桃李の演技合戦が凄い。人はなぜ医者になったか、なぜ官僚になったか、それぞれの生き方がぶつかり合い、やがて双方の理解も進んで行く。そこが最大の見どころで、福祉や教育など人と関わる職にある人は是非見るべきだ

(クルー役の森七菜)

 以上の人々には皆モデルがあり、取材を重ねて作られた。そのような「実話」を映画化したものだから、当然ながら日本社会の現実を反映して対策会議の出席者は男性ばかり。男性医師は子どもを妻に託してDMATに参加している。実話だから、どうしてもそうなってしまうのだが、そんな中で強い印象を残すのがクルーの羽鳥寛子森七菜)である。あるアメリカ人夫妻の対応にあたるが、これもモデルがあるという。是非映画で見て欲しいのでエピソードの内容は書かないが、一体どう決着するんだろうかとドキドキする。それだからこそラストの展開には感動するのである。雌伏数年、ついに「森七菜に助演女優賞を」と言える映画が現れた。

 この映画は「現場で医療に携わる人たちの努力」が印象的で、マスコミは批判的に描かれる。また政権内部の動き、医療界の動きなどは出て来ない。官僚は立松しか出て来ないので、全部彼がやっていたかのようだがそんなわけない。乗客やクルーも(当然だけど)印象的な数人しか出て来ない。当時は厚労省の対応など相当批判されたように思うけれど、前代未聞のパンデミックに際して準備不足の中、現場の努力で持ちこたえたという描き方である。僕はこの描き方がどこまで適切なものなのか判断出来ない。しかし、エンタメ映画として成立しつつ、実話の映画化をよくも成功させたものだと感心した。日本では珍しいと思う。

 企画・製作・脚本は増本淳で、元フジテレビのプロデューサーで今はフリーの脚本家だという。福島第一原発事故を扱ったNetflixの連続ドラマ『THE DAYS』(2023)を作っている。監督は『生きてるだけで、愛』の関根光才監督。実際のダイヤモンド・プリンセス号が撮影に使われたというネット記事もあったが詳細は知らない。明らかにセットじゃ出来ない映像が素晴らしい。

 たった5年前のことなのに、僕はずいぶん忘れていた。多くの人もそうだろう。世の中には「白」と「黒」の間のグレーの領域がかない多い。そういう現実にぶつかったとき、その人の本質が露わになる。医者じゃなくても、この映画を見ると「自分は何のために生きているのか」「何のために仕事をしているのか」と自問し、「初心忘るべからず」とつぶやくのではないか。

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『国宝』、原作(吉田修一)と映画(李相日監督)、どっちが面白い?

2025年06月12日 21時58分49秒 | 映画 (新作日本映画)

 映画『国宝』をさっそく見て来た。174分もある巨編だから、行ける時に行っておかないと機会を失うかもしれない。間違いなく今年を代表する一本だろうから、見過ごすわけにはいかない。吉田修一の長大な原作を李相日監督が見事に映像化していて、まあ評判だけのことはある。主人公立花喜久雄花井東一郎)役の吉沢亮が素晴らしく、特にラストの『鷺娘』(さぎむすめ)は見ごたえがある。対するに俊介花井半弥)の横浜流星の受けも見事で、二人のシーンは見ていて満足感がある。助演陣も素晴らしく、特に小野川万菊田中泯がやはり凄くて、師匠の妻役の寺島しのぶもさすが歌舞伎界出身ならではの存在感を発揮している。

 ということで確かにこの映画は満足出来る出来栄えだったと思うけれど、不満がないわけじゃない。それは原作にも言えることだが、「歌舞伎界」を描きながらその紹介を越えて「人間ドラマ」をどこまで深化させて描くかという問題。字で書かれた小説では想像するだけだった「歌舞伎の演技」を実写化することで、見た目の素晴らしさは確保出来る。原作と映画では演目に少し違いがあるが、それまあ映画化の宿命なので仕方ない。それにしても実際の歌舞伎シーンは美しく見映えがして、やはり映像はいいなと思う。しかし、『国宝』はシネマ歌舞伎じゃないんだから、歌舞伎シーンだけ素晴らしくてもダメである。

 吉田修一の小説は大体出身地の長崎が出てくるが、原作も映画も長崎に始まる。それが「任侠一家」の話なので、原作を読んだときはビックリした。歌舞伎の話かと思ってたらヤクザ小説だったのか? 原作ではもっと詳しく描かれて、そこに「謎」もある。父を殺された喜久雄少年は復讐を試みて失敗し(その中身は小説の方が面白い)、大阪歌舞伎の花井半二郎渡辺謙)のもとに預けられる。実は新年会の余興で、喜久雄は歌舞伎(『関の扉』)を踊っていて、その場に半二郎も呼ばれていた。1964年のことで、芸能界とヤクザ組織がまだズブズブだった時代の話。跡継ぎである喜久雄は若気の至りで早くも背中に入れ墨を入れていた。

(喜久雄と俊介『二人藤娘』)

 花井半二郎には息子俊介がいて、すでに花井半弥として舞台に立っていた。この時点では二人は子役がやっていて、喜久雄は黒川想矢(『怪物』)、俊介は越川敬達(『ぼくのお日さま』)。この二人も頑張っていて、ずいぶん長く出ている。いつ交代するのかと思う頃に、もう喜久雄も舞台に立っていて、時間がパッパッと進むのも映画の良いところ。最初は役にも恵まれないが、花井半二郎が事故にあって足に大ケガを負う。代役が必要になり、当然実子の半弥だろうと皆が思い込んでいたところ、半二郎は東一郎を代役に指名する。それが『曽根崎心中』のお初の役だった。この大逆転が以後の一大ドラマの起点となるのである。

 そこまでが前半で、時間的にもほぼ半分。ここまでは映画の方が面白いかもしれない。というのも原作は独特の語り口調で進んでいて、面白いけれどスピード感に欠ける。登場人物も多数いて、なかなか物語が進まないのである。それが映画では人物もエピソードもかなり整理されていて、主人公二人の葛藤に絞られ判りやすい。ところが原作のユルユルしたエピソード群は、後半で一挙に生きてきて面白くなる。一方映画では登場人物も絞ってしまったので、原作を先に読んでいるとちょっと残念なのである。

 後半に関しては、筋書きをあまり書いてしまっては面白みを削ぐだろう。ただし、俊介も喜久雄(その時点では半二郎を継いでいる)も「流謫」の日々がある。原作では舟橋聖一が歌舞伎化した『源氏物語』を二人が演じるシーンがあるが、その光源氏の須磨明石の章のように、歌舞伎界を離れた時期があるのだ。原作では俊介の「復活」はもっと劇的なエピソードがある。そして歌舞伎会社の竹野三浦貴大)の策謀により、喜久雄の出自(背中の入れ墨)や芸者に「隠し子」がいることなどが暴露される。その後、東京歌舞伎の吾妻千五郎中村鴈治郎)の娘彰子森七菜)と親の許さぬ結婚をして歌舞伎に出られなくなってしまう。

 原作ではその後「新派」に移ったり、彰子の活躍でパリで大評判になるなど面白いエピソードが満載なのである。そういうのをカットするのはやむを得ないだろうが、原作を知っていると残念。特に森七菜が全く出て来なくなるのもどうか。ラストに突然娘が現れるが、原作ではもっと面白い活躍をしているので、是非原作も読んで欲しい。そういうたくさんのエピソードがラストに向かって伏線を回収されていく。後半は物語的な意味では原作の方が面白いのではないか。映画は駆け足で筋をなぞる感じ。

 

 映画では喜久雄と俊介の演技をめぐる葛藤に絞られている。そこに関係ない話はほぼ出て来ない。これは奥寺佐渡子(『お引越し』や『学校の怪談』シリーズで知られる)の脚本の妙だろう。そこではっきりするのは「血筋か才能か」という問題である。それはほとんどの首相が「世襲」である国で、重大な問いなのである。また在日コリアンとして「日本の伝統」歌舞伎界を映画にしている監督自身にとっても切実な問いなんじゃないだろうか。結果的に『国宝』という題名になるわけだが、喜久雄は演技のために「悪魔」と取引する。すべてを歌舞伎に捧げて、自身も周囲の人物も決して幸福に出来なかったのかとも思う。

 李相日監督が吉田作品を映画化するのは『悪人』『怒り』に続く3回目。李監督は『フラガール』『悪人』で2度のベストワンを送り出した。原作は読みやすく面白いので、是非読んでみて欲しいと思う。ページ数は文庫で上下合わせて800頁を越えるが、そんなに長さは感じない。流れるように進む大エンタメだと思う。ただし、僕は小説も映画も『悪人』がベストだと思っている。

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映画『金子差入店』ー「差入」をめぐる重層的な物語

2025年05月26日 21時57分16秒 | 映画 (新作日本映画)

 古川豪監督・脚本の『金子差入店』という映画が上映されている。見るかどうか迷っていたのだが、朝日新聞の映画評に「差入店」の存在を今まで知らなかったと出ていたので、そうだろうな、そういう人が多いだろうなと思って、見てみることにした。主役の丸山隆平が「差入店主」を熱演していて、その妻真木よう子もさすがにうまい。その他脇役陣が妙に豪華で、寺尾聰名取裕子に加え、根岸季衣岸谷五朗北村匠海らが熱演している。実生活では会いたくないような人物を怪演していて見ごたえがある。

 「金子差入店」 の金子真司丸山隆平)は実は訳あり人生で服役経験があった。今はおじ(寺尾聡)がやっていた差入店を継いでいるが、妻の美和子(真木よう子)は他でも働いているらしい。金子は「面会代行」もやっていて、面倒な被収容者と会う仕事が多い。そんな時周囲で事件が起き、金子たちも巻き込まれていく。また一切口を開かないまま毎日面会に来ては拒否されていた少女(川口真奈)とも関わりが出来る。母親(名取裕子)とは複雑な関係だし、ある事件の被疑者の母(根岸季衣)は無理難題を押しつけてくる。そんな苦難の日々をドラマティックに描くが、物語的には「都合の良い」(内容的には都合の悪い)展開が多い。

 「差入れ」(さしいれ)というのは一般用語で、合宿や研修会などに飲食物を持っていく時なども使っている。病院に入院した人に下着や必要品を持っていくのも「差入れ」と表現する。しかし、この映画で使われる「差入」は刑事施設に収容されている人に物品、現金などを入れることを指す。刑事施設にはおおよそ3種類あって、警察管轄の留置場(代用監獄)と法務省管轄の拘置所刑務所である。拘置所というのは主に刑が確定する前の裁判中(または裁判前)の人を勾留する場所である。(その他、死刑囚も拘置所に勾留されている。)刑務所は裁判で実刑が確定した人が懲役(または禁錮)刑に服する場所である。(少年事件は別。)

(金子差入店)

 刑務所は懲役刑を執行されている人がいる所なので、原則的に家族や身元引受人などしか面会が難しい。一方、拘置所には刑が確定する前の人、つまり「推定無罪」の扱いを受けるが「逃亡」「証拠隠滅」の恐れがあるとして身柄を拘束されている人がいる。原則的に誰でも面会、差入れ可能で、手紙なども自由に出せる。時々確定前の死刑囚と文通したり、有名な事件の被告人に現金が集まっているとかニュースになるが、ホントに誰でも出来るのである。この映画は逮捕・起訴され裁判前の被告人が出てくるので、「拘置所」の前にある店なのだろうと思う。(ただ地方では刑務所と拘置所が同居している施設もある。)

 この映画を見ると、つい差入店を通さないと差入れできないような気になるが、そんなことはなくて個人でも可能である。ただかなり制限が多いので(自殺防止の観点など)、差入店を通す方が便利なのである。また下着、お菓子や缶詰類などは自分で選ぶよりお任せの方が楽なのである。週刊誌や本なども選べるので、差入店を頼ることになる。スマホなどは持ち込めないので、家族との連絡は手紙しかない。だから、便せん、封筒、郵便切手の差入れも重要である。大体の家族は初めて逮捕、起訴されて、動揺しているから専門家が必要なのである。(もちろん覚醒剤などで何度も逮捕されて、家族も慣れてる場合もある。)

(面会する金子)

 この映画では金子が「面会代行」「手紙代読」などを特別料金でやっているが、そういうことが一般的かどうか、僕は知らない。被収容者は面会、差入を拒否することも多い(施設側が面会を認めないこともある)ので、代わりに差入屋が面会してくれれば楽だろう。でも僕はそういうケースは知らないので、なんとも言えない。金子は自分の体験から、特に入れ込んで特別サービスを充実させているんじゃないだろうか。この映画ではドラマは面会をめぐって起きるので、何だかそういう仕事みたいに思えるが、一般的には差入店は差入れだけをやっていると思う。(家族や弁護士じゃないのに、誰にでも面会希望を出すのは不自然な感じがした。)

(古川豪監督=右)

 僕は今まで刑務所に行ったことはないけれど(むろん、面会にということである)、東京拘置所にはかなり行ったことがある。売店もあるが、近くに差入店もあった。頼まれて差入れしたことが何度もある。現金や郵便切手などは手紙に同封することも可能なので、差入店を利用するのは菓子類が多かったと思う。(不自由な環境に長くいると、酒・タバコはもちろん無理なので、どうしても甘い物を求めるようになることが多い。)また週刊誌や本などもついでに入れることが多い。

 『金子差入店』は珍しい素材をよく映画化したと思うし、いろんな俳優を楽しむことも出来る。しかし、ドラマ的に「作りすぎ」なエピソードが多いので、次第に現実感が乏しくなる。また刑務官に関する設定には納得出来ない部分もあった。だが、こういう仕事があるということ、それは被収容者の「権利」でもあるが、同時に社会全体にとっても誰かが担当しなければならない仕事である。そのことを考えて欲しいという意味を込めて紹介しておきたい映画。

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映画『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』、青春映画の傑作

2025年05月15日 20時11分14秒 | 映画 (新作日本映画)

 旅行に行く前に見た映画だが、書いてる余裕がなかった『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』。長すぎて名前が覚えられないが、『勝手に震えてろ』や『私をくいとめて』などで現代女性の青春を生き生きと描いた大九明子監督の新作で、とても心に刺さる青春映画の傑作である。今度の映画は萩原利久が主演する男性(男子大学生)映画になっているが、まあそれは僕にはどうでもよく、途中から出て来て突然消えてしまう女子大生、河合優実の相変わらずの絶好調ぶりを堪能出来る映画だ。大学が主要な舞台になっていて、関西大学が全面的に協力して主にキャンパスで撮影されている。今どきの学生気分を味わえる映画。

 何で関西大学かというと、この映画の原作は「キングオブコント2020年の優勝に輝き、熱狂的ファンも多いコント師ジャルジャルの福徳秀介が2020年に⼩説家デビューを果たした珠⽟の恋愛⼩説」だから。この福徳秀介(1983~)という人は2006年に関西大学文学部を卒業しているのである。関西大学と言っても関東の人間はよく知らないけど、そう言えば「関関同立」という言葉を聞いたことがある。どこにあるか調べると大阪府の吹田(すいた)市千里山キャンパスが中心で、そこに文学部があるとのことである。

 小西萩原利久)は関東出身で、祖母が亡くなりしばらくぶりに大学に戻ってきたばかり。周囲の人間関係になじめず、晴れてる日でも傘を差しているのが明らかに浮いていて奇異な感じ。大学の友人は山根(黒崎煌代)ぐらいしかいない。深夜に銭湯の清掃のアルバイトをしていて、風呂屋の親父(古田新太)や一緒に働いているさっちゃん伊東蒼)ぐらいしか話相手もいない。ところが学食で「一人ざる蕎麦」を食べている「お団子頭」の女子学生が気になるようになって、出席表を代わりに出してと依頼する時に「桜田花」(河合優実)という名前だと突きとめる。そして一人を恐れない桜田さんと何となく話せるようになっていく。

(萩原利久と河合優実)

 その後どうなるかは映画を見る楽しみを奪うので書かないけど、ラストに向けた「怒濤の展開」にはうなった。「変人どうし」の交際が順調に行くのかと思うと、もちろんそんなことはなかった。中程で伊東蒼の長い長い一人語りが出て来て、映画史に残るほど心に刺さる。この「サッチャン」は時々出町柳駅近くを歩いている姿がインサートされる。これは京都にある駅である。京阪電鉄の終点、叡山電鉄の始点で、詩仙堂に行くときに乗った記憶がある。調べてみると、近くに京都大学など幾つかの大学があるようだが、サッチャンは京大生なのか? 大学名は出て来ないが明らかに京都の大学に通学しているのだろう。今年の助演賞有力候補。

(伊東蒼)

 桜田さんがアルバイトしている喫茶店にいる犬(さくら)も頑張っている。見どころが多い映画だが、やっぱり河合優実だと思う。2024年の女優賞独占の活躍だったが、『ナミビアの砂漠』は設定が納得出来なくて書かなかった。今年も『悪い夏』のシングルマザー役で今までの殻を破る存在感だった。しかし、まだ学生役で通用するし、むしろ何か屈託のある不登校経験のある学生などが向いている。現実の関西大学でロケしているから、現代の青春の空気が伝わってくる。映画の展開を書けないのが残念だが、心打たれるものがあった。二人の若い女優を見るためだけでも見る意味があると思うけど、今まさに大学生ならどう見るんだろうか?

(犬のさくら)

 ただし、この題名は僕には納得出来なかった。「今日の空が一番好き」というのは、要するに晴れの日も雨の日もあるがその日の空が一番。つまり、健やかな日も病める日も、明るくその日を一番と思って生きるのが良いという人生に対する比喩だろう。でも人生は幼年から老年に向かって不可逆に進行するので、過ぎた日を思って感傷的になっても仕方ないと僕も思う。でも天候は必ず移り変わっていくものなので、大雨大風の台風の日の空よりも台風一過の晴れ渡った空の方が、やっぱり僕は好きだ。そして映画内で出てくる「恥ずかしくて好きと言えない時」の言い方もおかしい。好きな人には好きとはっきり言わなくちゃと思う。

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映画『片思い世界』、心の奥深く響く感動的な名作

2025年04月12日 20時31分43秒 | 映画 (新作日本映画)

 映画『片思い世界』は素晴らしい出来映えの感動作だ。今年の日本映画は年明けから傑作が多いけど、この映画が一番心に響く力を持っていると思う。あまり映画を見ない人がゴールデンウィークに一本見るならこれ!という映画だ。(その頃まで上映してるだろう。)映画の情報はいろいろと得られるが、この映画に関してはできるだけ事前情報なしで見た方が良いと思う。この映画の脚本には「ある特別な設定」があるけれど、ここでは映画内容には深入りせずに、周辺情報を中心に書いておきたい。

 『片思い世界』は坂元裕二の脚本、土井裕泰(のぶひろ)監督で『花束みたいな恋をした』のコンビ。坂元裕二は『怪物』でカンヌ映画祭脚本賞を受賞し、今年は『ファースト・キス』も手掛けた。まさに絶好調で、見事な世界観で深く心に届く設定を創造した。それは特に難解なものではなく、見ていれば「ああそうだったのか」と気付くだろう。広瀬すず(相楽美咲)杉咲花(片石優花)清原果耶(阿澄さくら)の3人が東京のどこかで暮らしている。仕事や大学に通っているが、彼女たちはどこか「普通」じゃない。それでもお互いに助け合って生きてきたのである。日本映画史上屈指の「シスターフッド映画」じゃないかと思う。

(主演の3人)

 時々過去の時間がインサートされ、そこでは子どもたちが合唱団にいる。この「児童合唱団」が映画世界の中心にあって、「何かが起こった」ことが次第に伝わってくる。3人はそれぞれ気になる人がいて、ある日美咲(広瀬すず)はバス内で高杉典真横浜流星)を見つける。昔合唱団の伴奏をしていて、天才的なピアニストになると思われながら、その後ピアノから離れてしまった。他の二人も気になる人がいて、それがどのように展開するかが映画の鍵になっていくのである。

(横浜流星)

 この映画の魅力は「合唱の力」である。予告編で流れているオリジナル合唱曲は「声は風」(作詞 = 明井千暁、作曲=大薮良多、山王堂ゆり亜、編曲=小林真人)という曲。是非今後も歌いつがれて欲しい名曲で、これは聞いて欲しいと思う。もう一曲子どもたちが歌っているのを3人が聞く曲がある。どこかで聞いた気がするけど、何という曲なんだろう? 調べてみると「夢の世界を」(作詞=芙龍明子、作曲=橋本祥路)という曲で、よく合唱コンクールで歌われる橋本祥路の代表作だという。橋本氏は教育芸術社の専属作曲家で、「翼をください」や「あの素晴らしい愛をもう一度」を合唱曲に編曲して中学校で歌えるようにした人だという。

(主演3人と土井監督)

 ラストは合唱コンクールになるけど、これは反則技だろうと思う涙無くして見れない名場面。もうこの時点では映画の設定が全部判明しているから、ただただ涙と感動のラストになる。歌を持ってこられたら泣くよ。「子どもと歌」の合わせ技なんだから。この映画に欠陥があるとしたら、余りにも良く出来すぎていて、映画内で感動が完結しちゃうことかもしれない。アートは作品世界に同化させるものより、何か違和感を残して終わる(例えば吉田大八監督『』)方が後々まで心に残る場合がある。

 広瀬すずは今年はすでに『ゆきてかへらぬ』の長谷川泰子役があり、さらに今後『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ原作、石川慶監督)、直木賞受賞作の映画化『宝島』(真藤順丈原作、大友啓史監督)が控えている。順当ならまず主演女優賞当確だろう。多くのテレビドラマ、映画を作って来た土井監督にとっても代表作になるんじゃないかと思う。映画内に灯台が出て来るが、これは犬吠埼灯台。他にもロケされているが東京近辺で撮影されたらしい。ラストの合唱会場は埼玉県入間市の武蔵野音大だという。見終わった瞬間からもう一度見たいと思わせる映画で、僕は「夢の世界を」や「声は風」を何度も聞いている。

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感動的な『35年目のラブレター』、夜間中学の大切さを伝える映画

2025年03月26日 21時55分00秒 | 映画 (新作日本映画)

 塚本連平監督『35年目のラブレター』を見て来た。ずいぶん宣伝してたから、内容は大体知っていた。見る前から予想出来るとおり、素直な作りで素直に感動を呼ぶ。なかなかキャストが頑張っているけれど、それだけだったら書かないかもしれない。しかし、書いておきたいメッセージが詰まった映画なのである。それは主人公が通うことになる「夜間中学」の大切さである。いま全国で夜間中学の設置・充実を求める動きがあり、多くの人がこの映画を通して夜間中学の大切さを知って欲しいなと思う。

 この映画には原作があり、それは小倉孝保の同名のノンフィクションである(講談社文庫)。実在の主人公、西畑保を取材した作品だが、作者がこの話を知ったのは笑福亭鉄瓶の「ノンフィクション落語」からだという。その落語は鉄瓶の師匠、笑福亭鶴瓶がテレビ番組で紹介した話が基になっていた。そういうつながりがあって、映画でも主人公西畑保を笑福亭鶴瓶が演じている。その優しい妻を原田知世が演じていて、ほぼ同世代の設定ながら実際は鶴瓶=1951生、原田=1967生なんだから、見る前には不釣り合いなんじゃないかと心配になった人も多いはず。しかし案に相違してなかなか似合っていたので、不思議!

(鶴瓶、原田夫妻)

 映画にもいろんな作風があり、あえて時間をバラバラにして難解にしているようなのもある。この映画はそういう作家映画ではなく、エンタメ映画の文法で作られている。しかし、主人公夫妻の歴史を説明する必要から、現在と過去を何度も行き来する。その程度なら現代人は基本的に混乱することなく、ああ主人公夫妻の過去なんだと納得出来るはずである。主人公西畑保は苦しい子ども時代を送り、小学校2年から学校に通えなかった。そのため文字を読めず、日々苦労が絶えない。そんな保は苦労して寿司職人として定職を得られた。そして働きぶりを見込まれて見合い話が持ち込まれ、断れなくなる。

(若き日の夫妻役)

 若き日の保を重岡大毅、妻を上白石萌音が演じて、とても良い。妻は「きょうこ」と何度も呼ばれているが、字が最後まで出て来ない。実は「皎子」という、ちょっと想像付かない(見たこともないし、変換に出て来ない)字だった。実在人物だからやむを得ないんだろう。どうして字が読めない保に結婚相手が見つかったのか。そして字が読めないことはどのように判明し、それを妻はどう受けとめたんだろう。それが映画の大きな見どころで、上白石萌音持ち味の温かな「受け」の演技が生きている。そして、保は二人の娘を育てあげ、寿司職人としても定年を迎えるまで勤め上げたのである。そして、人生の忘れ物に気付く。

(実在の西畑保夫妻)

 それが「文字を読めるようになりたい」ということで、近くに「夜間中学」というものがあると知ったのである。最初は臆するが、教師の谷山恵安田顕)に説明されて、通うようになったのである。(教師は自己紹介で「人生、谷あり山あり恵あり」と言っている。)そして入学した日の自己紹介で「クリスマスに妻にラブレターを書く」と宣言する。「目標」を作ったのだが、なかなか上達しない。勉強にも「方法」と「時間」が必要なのだ。何年も通ううちに、同級生は昔中学に行けなかった高齢者より、不登校や外国人が増えてくるのも世の中の変化を感じさせる。果たして保が妻にラブレターを書ける日は来るんだろうか?

(夜間中学、左=安田顕)

 西畑夫妻は奈良県に住んでいて、映画ではふんだんに奈良ロケが出てくる。奈良公園の鹿、猿沢池から望む奈良ホテルや五重塔、若草山などなど。奈良風景が観光としてちょっと出てくる映画は多いけど(例えば山田洋次監督が夜間中学を描いた『学校』、あるいは『男はつらいよ』第1作など)、こんなに奈良の風景を描いた映画も珍しいと思う。古くは田中絹代監督『月は上りぬ』、清水宏監督『大仏さまと子供たち』、近年では河瀬直美監督『沙羅双樹』などが思い浮かぶがそのぐらい。じゃあ、肝心の小高い中学はどこにあるのかと調べると、なんと東京都日野市大坂上中学というところでロケされたと日野市のサイトで宣伝していた。

(舞台挨拶、右端=塚本連平監督、その次=主題歌の秦基博)

 多くの人に見て欲しい映画だが、まあ「感涙の佳作」かな。作りが素直過ぎちゃうのである。そのため最後になってくると、少し突っ込んでみたくなる。中心になる人物に善人しか出て来ない。家族の生活を支える誇れる仕事、思いやり深い配偶者、しっかり育った子どもたち…って、こんな三拍子そろった人生は、現代の若者からすればうらやましくないか。もちろん苛酷な子ども時代、文字の読めない人生は辛いに決まってるんだけど…って思ったりするのである。なお夜間中学を描いた映画としては、前記『学校』の他、森康行監督の記録映画『こんばんは』(キネマ旬報文化映画ベストワン)がある。どちらも授業で使うと非常に受けがよく、皆で考えるのに向いた教材として価値がある。『35年目のラブレター』も学校での鑑賞を推奨。

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お見事!『ファーストキス』、ラブコメファンタジーの傑作

2025年03月12日 20時32分41秒 | 映画 (新作日本映画)

 2月7日公開の映画『ファーストキス 1ST KISS』はひと月経っても大ヒット中。ヒット映画はそのうち見れば良いと思って見逃すことがある。見てもガッカリだと書かないこともあるけど、『ウィキッド』の前にこっちを見ようかと思って大正解。坂元裕二はさすがカンヌ映画祭受賞脚本家である。松村北斗も『夜明けのすべて』でキネマ旬報主演男優賞を取ったのは間違いではなかった。そして塚原あゆ子監督も日本アカデミー賞優秀監督賞受賞にふさわしい見事な演出。それにしても塚原あゆ子監督は昨年来『ラストマイル』『グランメゾン★パリ』『ファーストキス』と三連続大ヒットはエンタメ映画界、女性監督史上の快挙だ。

 映画の紹介をコピーすると、こんな話。「結婚して十五年目、事故で夫が死んだ。夫とは長く倦怠期で、不仲なままだった。残された妻は第二の人生を歩もうとしていた矢先、タイムトラベルする術を手に入れる。戻った過去には、彼女と出会う直前の夫の姿があった。出会った頃の若き日の夫を見て、彼女は思う。わたしはやっぱりこの人のことが好きだった。夫に再会した彼女はもう一度彼と恋に落ちる。そして思う。十五年後事故死してしまう彼を救わなくては――。」

(塚原あゆ子監督)

 もう少しだけ書いておくと、夫は硯駈(すずり・かける=松村北斗)で、妻は硯(旧姓高畠)カンナ(松たか子)。二人はもううまく行ってなく、寝室も別なら朝食まで別(夫はご飯、妻はパンを別の机で食べている)。ついに離婚届にサインして今日提出すると言って夫は仕事に出かけた。そして駅のホームからベビーカーが落ちたとき、助けようと線路に飛び降りて自分だけ轢かれて死んだ。彼の死は日本中に感動を与え、全国から手紙が殺到した。2024年6月のことである。

(脚本の坂元裕二)

 カンナはある日、仕事場に向かう途中で首都高で事故を避けようとして、違う車線に入り込む。そこを通っていくと異界に通じて、2009年に夫と知り合った日に戻ってしまった。首都高と言っても三宅坂トンネルで、トンネル(みたいなところ)を抜けると違う世界というのはよくある設定だ。だけど、タイムトラベルなんてあり得ないわけで、この設定面白そうですか? 何だかありふれたファンタジーっぽくて、期待薄に思うかもしれない。というか、僕も見る前はそう思っていたんだけど、この脚本は素晴らしく面白い。そして松たか子と松村北斗のコンビは、他の誰でも不可能なような奇跡を実現している。

(ロープウェーに乗る)

 カンナは若い夫に再び恋して、何とか「死なない未来」に改変出来ないか過去と現在を何度も行き来する。そこは学会を控えたリゾートホテルで、風景も素晴らしい。そして評判のかき氷を食べに行ったり、ロープウェーに乗りに行ったりする。(北八ヶ岳ロープウェーだという。)駈は古生物研究者で、教授(リリー・フランキー)の助手で来ている。教授の娘(吉岡里帆)も来ていて、駈に気がありそうだ。どうすればよいのか? ついに自分じゃなくて教授の娘と結婚させれば良いのかとまで思うが。この何度も何度も過去に戻って、現実改変の反復を試みるところが、コミカルで面白い。近年出色のラブコメの傑作。

(道を散歩する=諏訪市)

 夏の避暑地で繰り広げられる至極のラブストーリー。一面から見るとそういう映画だけど、ベースは「タイムトラベル」ものだから、ジャンル映画のルールは変えられない。「あの日に帰りたい」というのは、多くの人々の思いである。皆が皆、「若い日のあの頃」に戻りたいと思ったことがあるはず。子どもを亡くしたとか、悔いを残す人はなおさら。2011年3月10日とか、1945年8月5日とかに戻れたら多くの命を救えるかも…。そういう願望に基づく多くの小説、映画などが作られてきた。しかし、どんな「物語」でも何らかの障害が起こって「現実は変えられない」という結末に至ることになっているのである。

 だけど、この映画が感動的なのは、駈は死んだけど「自分は生きている」からである。現実世界はいくつもの違った世界が層になっていてミルフィーユみたいになっている。登場人物がそういうセリフを言っている。それが事実かどうか別にして、自分が変わることによって、これからの世界は変えていける。泣いて笑って、最後にそういうメッセージを貰える。エンタメ映画のお手本じゃないか。何と言っても脚本の世界観が素晴らしく、主演の二人も最高。松たか子の「美魔女」ぶりは見事。それに加えて、撮影の四宮秀俊も特記しておきたい。『ドライブ・マイ・カー』『』の撮影を担当した人である。

 (フルーツパーク富士屋ホテル)

 この映画の主要な舞台となったホテルはどこだろうか? 日光じゃないようだから、北軽井沢あたりかなと思ったら、富士山が見えたので違った。クレジットを見て山梨県の「フルーツパーク富士屋ホテル」だと判った。ロケ地を調べたサイトがあって、その他知りたい人は調べれば出てくる。「出会い」と「結婚」に関する金言名句も散りばめられていて、カップルで見てた人は泣いてる感じ。この映画はきっと他国でリメイクされるんじゃないだろうか。韓国やタイ、そしてハリウッド版を見てみたい。

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映画『ゆきてかへらぬ』、中原中也「愛の伝説」を描く傑作

2025年02月23日 21時45分52秒 | 映画 (新作日本映画)

 田中陽造の脚本を根岸吉太郎が監督した『ゆきてかへらぬ』が公開された。名脚本を名監督が見事なキャストで映像化した傑作だが、内容的に少し解説がいるかもしれない。脚本はもう40年ぐらい前に出来ていたが、なかなか映画化が実現しなかったという。田中陽造は『ツィゴイネルワイゼン』や『セーラー服と機関銃』などの名作を書いた脚本家で、根岸監督の前作『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ』(2009)もこの人。太宰治をモデルにした傑作だったが、今回は中原中也小林秀雄を扱う。というか、この二人と関係があった長谷川泰子が事実上の主人公。文学史に名高い「愛の伝説」を香り高く描いて感銘深い。

 根岸監督としても『ヴィヨンの妻』以来16年ぶりの新作だが、全く衰えを見せていない。『ヴィヨンの妻』は太宰治を浅野忠信が演じたが、心に残るのは妻役の松たか子だろう。今回の『ゆきてかへらぬ』も中原中也木戸大聖)や小林秀雄岡田将生)が名演しているが、やはり心に残り続けるのは広瀬すず演じる長谷川泰子だろう。結局は売れない女優で終わって文学史の片隅に残るだけの女性だが、時代を精一杯生き抜く様がまさにこんな感じだったかなと思わせる。他にも何人か出ているわけだが、圧倒的にこの3人(小林が登場する前は2人)が出ずっぱりで頑張っていて見ごたえがあるシーンが連続する。

(左から中原中也、長谷川泰子、小林秀雄)

 京都で出会った中也(17歳)と泰子(20歳)は同棲するに至るが、中也がローラースケートで登場し二人で興じるシーンがある。実際に中也は好きだったらしい。また東京に出てきて小林秀雄を含めて会うようになると、3人で遊園地に行きメリーゴーランドに乗る素晴らしいシーンがある。その後、ダンスに行き、泰子は見事に楽しんでいる。中也は一緒に踊り始め、小林は二人を見ている(その後少し加わる)。3人でボートに乗るシーンも素晴らしい。映像的に見事なだけでなく、この3人の関係、心の動きを象徴するような美しくて怖いシーンである。事実を基にしているので、展開は知っているがハラハラして見てしまう。

(ローラースケートに興じる)

 この3人の関係は昔から有名だった。特に70年代には、「知られざる詩人」中原中也(1907~1937)の評価が完全に定着し、また小林秀雄(1902~1983)が文芸批評界の頂点に君臨していた。その二人が若き時代に長谷川泰子(1904~1993)という女性をめぐって「三角関係」にあったという事実は、非常に興味深い近代文学史の謎だったわけである。ところで、今書いた没年を見れば判るように、3人の中で最も長命だったのは長谷川泰子なのである。どんな後半生を送っていたのかと思うと、1976年に岩佐寿弥監督の記録映画『眠れ蜜』という映画に出演した。70歳を越えて見事な踊りを披露し、ホントに生きてたんだと驚かされた。

(実際の長谷川泰子)

 中原中也は1937年に30歳で亡くなり、その時点では第一詩集『山羊の歌』しか刊行されてない。詩人仲間には知られていたが一般的知名度はなかった。その当時の仲間だった大岡昇平が戦後に全集や評伝を書き、次第に知られていった。有名な「汚れつちまつた悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れつちまつた悲しみに/今日も風さへ吹きすぎる」という詩があるが、僕には70年代の荒涼とした心象風景をうたう現代詩に思えた。高校時代から好きで大きな影響を受けた詩人だ。一方の小林秀雄も『ドストエフスキーの生活』や『モオツアルト』などを読んで、よく判らなぬながら断定的な魅惑される文体に影響された。

(中原中也)(若き小林秀雄)

 この3人がどんな会話をしていたか実際には不明なわけだが、田中陽造の脚本は見事に出来ていて名言が多い。中原中也は「売れない詩人」として現実性のない子どものような魅力を振りまいている。長谷川泰子はマキノ映画の大部屋女優だったが、中也の天衣無縫な天才ぶりに魅惑されただろう。東京へ出て小林秀雄と実際に知り合う(京都時代にランボーの詩を小林訳で読み感激していた)と、泰子からすると中也より年長で見守ってくれる小林秀雄に惹かれていくのも納得出来る。中也は自ら「天才の持つ不潔さ」というが、泰子は小林と一緒になると今度は何でも批評できてしまう男が不満に思えてくる。

(小林秀雄の家で)

 その意味では長谷川泰子を頂点にする「二等辺三角形」のような愛の形になり、泰子からするとどちらか一人と暮らすというのは精神的に不均衡になってしまうのだ。まだ小林秀雄も中原中也も何者でもなく、皆独身だった。もちろん当時の感覚からすれば、未婚の男女が一緒に住むのは不道徳なスキャンダルとも言えるが、「文学」にとっては世の評価などどうでも良い。僕にはまさになるべくして結ばれては別れる円環構造を描く「愛の伝説」を見事に造形していたと思う。

(根岸吉太郎監督)

 根岸吉太郎(1950~)は昔から相性の合う監督で、僕の好きな映画が多い。前に国立フィルムセンター(当時)で特集が組まれた時に、同時代に見た映画もほぼ見直して記事を書いた。『「探偵物語」と「俺っちのウェディング」ー根岸吉太郎監督の映画①』『「遠雷」と「ウホッホ探検隊」-根岸吉太郎監督の映画②』『「雪に願うこと」など-根岸吉太郎監督の映画③』で、2016年3月のことだ。特に『遠雷』『雪に願うこと』『サイドカーに犬』『ヴィヨンの妻』などの映画が好きだ。もう作品を撮らないのかと思っていたら、こういう風に新作が現れて嬉しい。しかし観客動員的には苦戦している感じで是非見逃さないように。

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映画『敵』、筒井康隆原作、吉田大八監督の大傑作

2025年02月10日 20時19分25秒 | 映画 (新作日本映画)

 吉田大八監督が筒井康隆の原作を映画化した『』。東京国際映画祭東京グランプリ最優秀男優賞長塚京三)、最優秀監督賞の3冠に輝いた作品である。事情があって見るのがちょっと遅れたが、この映画はものすごい傑作である。今どき珍しい白黒映画だが、演出、演技、撮影などの完成度が高く、緊迫した画面に目が離せない。しかし、この映画があまり好きじゃないという人もいると思う。それは原作者筒井康隆の「悪意」あるブラック・ユーモアが合わない人もいるはずだから。だけど、これはかつてなく完成度の高い「知識人映画」で、高齢者にとっては思わず笑ってしまう「悪意」に満ちている。

 主人公は元フランス文学の大学教授、渡辺儀助長塚京三)、77歳。妻はもう20年近く前に亡くなり、都内の古い家で一人暮らしをしている。もちろん大学は退職しているが、今も昔の教え子が雑誌連載を少し依頼してくれる。だから毎日少しずつパソコンでエッセイを書いている。専門はラシーヌとかモリエールとかの何百年も前のフランス演劇。一人暮らしでも生活レベルは落とせず、自分で材料を買い込んで自炊している。やがて年金と資産を食い潰す時が来るだろうが、その時が寿命の終わりと考え、特に健診にも行かない。そして、彼の内的世界には未だ女性が住み続けている。

(瀧内公美と)

 その一人が教え子の鷹司靖子瀧内公美)で、今も時々自宅でディナーを振る舞っている。大学時代は彼女を観劇に誘って食事を奢っていたらしい。性的関係はなかったものの、実は惹かれてきたのか? 今の基準なら問題になりかねない付き合いだったらしい。卒業後は出版社に就職し、昔は時々雑誌に劇評を書かせてくれたが、今はもうそんな雑誌も無くなった。儀助の夢の世界には靖子の面影がひんぱんに現れ危ない会話を楽しむが、自分でも夢と理解しているらしい。

(河合優美と)

 また家の片付けなどに来てくれる男の教え子もいる。雑誌に原稿を依頼してくれる教え子とは、時々バーに飲みに行ったりする。それは「夜間飛行」というサン=テグジュペリにちなんだバーで、最近はオーナーの姪(河合優美)が時々手伝いに来るようになった。彼女は立教大仏文3年で、『赤と黒』も『異邦人』も途中で挫折したというのに、何故か仏文を選んだ。儀助とのフランス文学の会話を楽しんで、今度フランス文学に出て来る料理を作ると約束する。しかし、彼女は学費も滞納していて何か悩みもありそうだ…。と「今を時めく」河合優美とフランス文学を語りあい、つい同情してしまうのだが…。

(黒沢あすか=亡妻と)

 しかし、もちろん彼の人生で一番重要な女性は亡妻(黒沢あすか)である。古い家には時々亡妻が現れるようになり、一緒にパリに連れて行ってくれなかったと責める。時には一緒にお風呂にも入るし、ディナーにも同席する。しかし、儀助は亡妻がいるのは不自然だからこれは夢の世界だと認識したりする。そんな彼の世界に「」が出現する。初めはパソコンに届くスパムメールとして。「敵」が現れたという。「北」から攻めて来ていると言う。マスコミは全く報じないが、どんどん近づいていると言う。何度も何度も「敵」に関するメールが届くので、ある日クリックしてしまうとパソコンは異常になってしまう。

(東京国際映画祭で)

 儀助先生の日々の暮らしを細密に描くリアリズム映画に始まり、やがて彼の夢の世界が画面に出現し、ついには「敵」の襲撃(?)という事態に陥る。日本には知識人を描く映画が少ないが、これは非常に珍しい成功作だと思う。ちょっと前に『春画先生』があったが、あれは素材的にもコメディだった。一方、『』は日本では成功例が少ない「ブラックユーモア」の傑作。市川崑『黒い十人の女』や森田芳光『家族ゲーム』などに匹敵する傑作だと思う。

 吉田大八監督(1963~)は『桐島、部活やめるってよ』(2012)と『紙の月』(2014)という傑作があるが、演出だけ見れば2作を越える傑作ではないか。主演の長塚京三(1945~)は実年齢では79歳で、儀助より少し年長だった。パリに留学していた経験があり、まさにはまり役。去年見直した左幸子監督『遠い一本の道』(1977)に「新人」としてクレジットされていたが、当然若々しくて驚いた。『ザ・ルーム・ネクスト・ドア』を見たばかりだが、あれは女性2人による「死をめぐる対話」だった。この『』は一人暮らし男性老人の妄想的な死との戯れである。どっちも高齢者映画の傑作だが、若い人もぜひ見て欲しい。

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映画『雪の花ーともに在りてー』と天然痘の話

2025年02月03日 21時46分03秒 | 映画 (新作日本映画)

 末廣亭に行った後、金曜日は新宿で『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』を見に行ったけど、土曜日に体調を壊した。咳ものどの痛みもないが、吐き気がする。お腹に来るタイプの風邪か。風邪気味のときに昔よく目が赤くなっていた。自分で「風邪目」と呼んでいたが、今回も赤かったから風邪だと思う。日曜もダウンで、ようやく少し良くなってきた。しかし、今日はまあ簡単に書けるテーマで書いておきたい。

 映画『雪の花ーともに在りてー』は松坂桃李芳根京子役所広司出演で、けっこう宣伝もしていたのに第1週の興収ベストテンに入らなかった。僕が見たのは一週間ほど前だが、確かにあまり流行っている感じじゃなかった。僕もまあ大傑作だから是非見逃すなと思ってるわけじゃない。小泉堯史監督は丁寧で良心的な作風で知られた人で、演出にケレンがある人じゃない。「史実」の映画化という意味でも、どうなるどうなると固唾を呑んで見守ることはなく、静かに感動を見守ることになる。

 この映画は日本に種痘(しゅとう)を広めようとした人々を描いている。特に福井藩の笠原良策が取り上げられていて、藩内に根強い種痘反対派の妨害があった中、藩主松平春嶽の支持を得て次第に広まっていく様が丁寧に描かれている。美しい景色、良心的な人々、とても良いんだけど、まあ「想定内」という映画ではある。松平春嶽(慶永、1828~1890)は幕末四賢公と言われた人で、かつて『葉室麟「天翔ける」と松平春嶽』を紹介したことがある。ちなみに小泉監督は葉室麟の『蜩ノ記』『散り椿』を映画化している。『蜩ノ記』は直木賞受賞作だが、役所広司の名演もあって感動的な作品だった。

(松平春嶽)

 もう一つ触れておきたいのは、ここで扱われている病「天然痘」の恐怖がもう忘れられているんじゃないか。奈良時代に流行した時は、藤原四兄弟が相次いで亡くなったことで知られる。それを描いたのが直木賞作家『沢田瞳子「火定」(かじょう)ー天平の天然痘大流行を描く』で、これは歴史小説ではあるがどんなホラーより怖い小説だった。その天然痘ももう大分前に根絶されている。それはWHOによる長年の根絶作戦の成果で、その作戦を率いた蟻田功氏の訃報を書いたことがある。WHOは今ポリオの根絶を進めていて、『ポリオ、アフリカで根絶ーWHOの成果』で紹介した。そのWHOをトランプ政権は脱退しようとしているが、『中公新書「人類と病」を読むーアメリカは前からWHOを敵視してきた』を読むと、アメリカ政府はずっとWHOを敵視してきた。

(笠原良策)

 映画のモデル、松坂桃李が演じた笠原良策は1809年に生まれて、1880年に亡くなった。明治13年まで生きた人だから、写真が残っている。福井藩の種痘は笠原が推進したが、それは何も日本初ではない。長崎近辺ではすでに実施されたところもあった。しかし、足で運ぶしかない時代に北陸まで「痘苗」(牛痘の苗)を運ぶのが大変で、それを大変な苦労の末に成功させたのである。そして福井だけでなく、金沢や富山にも広めた。種痘は世界初のワクチンで、日本でも1972年頃まで小学校で全員接種が行われていた。僕も受けた記憶がある。しかし、同時に「種痘脳炎」という副反応が一定程度生じることも知られている。種痘で天然痘を撲滅できてが、その影で犠牲になった子どもたちも相当程度いることを忘れてはいけない。

(東京国際映画祭で)

 小泉堯史(1944~)監督は黒澤明に長く師事したことで知られる。黒澤監督没後に、黒澤のシナリオを映画化した『雨あがる』(2000)で監督になった。その後『阿弥陀堂だより』(2002)、『博士の愛した数式』(2006)、『明日への遺言』(2008)、『蜩ノ記』(2014)、『散り椿』(2018)、『』(2022)と作ってきた。まあ『博士の愛した数式』がベストだろう。こういう「良心的作風」の人が数年置きとは言え、ずっと映画を作り続けて来られたのは奇跡だと思う。原作者の吉村昭は数多くの歴史ノンフィクション小説を書いている。あまりにも緻密な作品が多く、歴史系では『桜田門外の変』しか映画化されていない。(相米慎二監督の『魚影の群れ』も吉村昭原作である。)僕の愛読してきた作家だけに長く読み継がれて欲しい。

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映画『港に灯がともる』、震災30年の「心の傷」を描く

2025年01月25日 22時15分21秒 | 映画 (新作日本映画)

 阪神淡路大震災30周年の2025年1月17日に、映画『港に灯がともる』が公開された。NHKドラマを基にした『心の傷を癒やすということ』の劇場版映画を手掛けた安達もじり監督が、阪神淡路大震災翌日に神戸市で生まれた在日コリアンを描いた映画である。富田望生(とみた・みう)の初主演映画で、ラストに流れる主題歌「ちょっと話を聞いて」も作詞して歌っている。

 この映画について書こうかどうか、ホント言うとちょっと迷った。見た映画全部を書いてるわけじゃない。エンタメ系の場合、自分が見なくても良いと思っても、他に人には面白いという映画は多いだろう。一方シリアス系の場合、見ていて辛い映画も多い。暴力シーンなど血糊を使っていると知ってるけど、人間関係のもつれとか心の病を扱う場合は見ていて辛い場合がある。

 この映画の主人公「金子灯(かねこ・あかり)」の設定もかなり大変で、過呼吸になってるシーンなど見る側にも伝染してしまいそうだ。同じような悩みを持つ人は無理して頑張って見なくても良いと思う。しかし、この映画は小さな公開なので、知らない人も多いだろう。阪神淡路大震災30年の年に公開された意味もあり、多くの人に知らせる意味もあるから記録しておきたい。

(震災20年目の成人式)

 2015年から映画は始まる。震災の年に生まれた子どもたちも成人式を迎えたのである。金子灯富田望生)も参加するが、家ではもめていて家族写真も撮れない。灯は震災翌日に生まれて、幼い頃から母に「大変だった」とばかり言われ続けて、実は重荷に思い続けてきた。長田区に住む在日コリアンだが、震災で移った過去がある。父は震災直後の長田の大変さ、頑張ってきたことを語るが、それも灯には重い。姉を中心に日本の国籍取得を進めているが、父は反対していて父とは別居の予定である。

(家族写真の思い出)

 灯は工場で働いていたが、次第に「すべてがしんどい」と心の平衡を失っていき、病院へ行く。「うつ」と診断されるが、また別の病院で皆で話し合いをする療法に出会う。少しずつ回復していくが、まだ家族、特に父と向き合うことが出来ない。ようやく面接に行けるまでになるが、履歴書に療養歴を書くと全然受からない。ある小さな建設設計事務所で働けるようになり、そこで長田区の「丸五市場」のリニューアルという仕事に携わる。生まれたばかりの家族写真に出て来た場所はここだったのかと灯は初めて気付く。少しずつ父の心境も理解出来た気がするが、父と話すとやはり一方的に言われて衝突してしまう。

(安達監督と富田望生)

 という風に、「震災」や「民族」を描いた映画かなと思うと、実は「心の病」を描く映画という面が大きい。そして、それが大切なところであり、また見る側もちょっとしんどいところだ。大人は「自分たちが復興を頑張ってきた」ことを次の世代に「伝えていかなくてはいけない」と思いがちだ。しかし、それを重荷を背負わされてきたと感じる人もいるんだなということが理解出来る。それがこの映画のテーマなのかどうか、僕にはちょっと決めがたいが、自分にはそう感じられたのである。

 富田望生は福島県いわき市で、2011年に東日本大震災に遭った。その後東京に移り、2015年の『ソロモンの偽証』のオーディションに合格した。『チアダン』の小太りなメンバー、『SUNNY強い気持ち強い愛』の渡辺直美の若い時期を演じた人である。いつも太っているわけじゃなく、役のために10キロ以上増減するんだという。最近は朝ドラ『なつぞら』『ブギウギ』や日曜ドラマ『だが、情熱はある』の南海キャンディーズしずちゃん役などで思い出す人もいるかと思う。映画初主演は非常にシリアスな役柄になったが、僕は見事に演じていたことに感心した。

 安達もじり監督はNHK大阪放送局のディレクターとして、『まんぷく』『花子とアン』などを手掛けた後、『カムカムエヴリバディ』でチーフ・ディレクターを務めて評価されたという。朝ドラ以外に『心の傷を癒やすということ』(2020)とその劇場版があり、この映画もそこからのつながりで作られた。なお、Wikipediaを見たら、哲学者鷲田清一の子だと出ていた。「もじり」はモディリアーニから取ったという。音楽を世武裕子が担当している。

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映画『どうすればよかったか?』、姉が統合失調症になって家族はどうしたか

2024年12月26日 22時02分20秒 | 映画 (新作日本映画)

 評判のドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』を見て来た。12月7日の公開後、上映館ポレポレ東中野は連日満員で、いつも事前予約がすぐ埋まってしまう。今週からテアトル新宿などでも上映が始まり、僕はキネカ大森まで行って見て来た。まあ半分ほどという客数だったけど、年末の平日にしては相当多かったというべきだろう。

 この映画は監督の藤野知明(1966~)が20年以上にわたって自分の家族(父、母、姉)を撮影したものを編集した「家族の年代記」、もっとはっきり言えば「家族の失敗の記録」である。父も母も医学部を出て研究者をしていたという人で、姉も医学部を志し4年掛かって入学した。そして勉強に励んでいた時、精神的な失調が現れた。それは「統合失調症」、当時は「精神分裂病」と言われた症状に思えたが、当然医者である両親はすぐに病院に連れていくと思いきや、そうではなかった。しばらくして父の教え子がやっているという精神科を受診したが、問題ないと言われたとして即日連れ帰ってきたのである。

 それが80年代初めのことで、以後姉は自宅の部屋に閉じこもることが多くなった。姉は1958年生まれで姉弟の年齢差が大きく、弟の知明は親の対応がおかしいと思いながら、直接介入できないまま時間が経っていった。90年代初めに「録音」した姉の音声が冒頭で流れるが、大声で意味不明のことを怒鳴っている印象である。何も出来ない弟は家を出て関東地方で就職した。(北海道の話で、監督は北大農学部を7年掛けて卒業した。)そして1995年になって前から勉強したかった日本映画学校に入学した。そして、将来家族の対応を検証しようと思いつつ、映像の練習みたいに取り繕って撮り始めたのが映画の素材なのである。

(母と姉)

 ということで成り立った映画なので、普通の観点から言えば映像的には物足りない。一般的には劇映画であれ、記録映画であれ、ニュース的なケースを除き「映像に凝る」ものだ。でもこの映画は、家族のスナップ写真を撮るように特にピントや露出にこだわらずに撮り続けている。だけど、この家族はどうなるんだろうという関心のもと、非常に強い緊迫感がみなぎっている。身もふたもない題名が付いているけど、観客が考えるのもまさにそのことなのである。そしてどうなったかは今後見る人のために書かないことにする。しかし、医学研究者である両親のもとでまるで「私宅監置」みたいなことが21世紀にも起こっていたのは衝撃である。

 映画後半になって、監督は母に何故と問うと「パパの壁」と答えている。父親が病院に連れて行かないという決断をして、姉を病院に入れると「パパは死ぬ」とまで言う。一方で父に問う場面があるが、「ママが病気を恥ずかしく思った」と答えている。日本では精神病院で人権侵害的なことが起きてきた。それを心配して家に留めたというわけでもないようだ。どう考えれば良いのか、僕にはさっぱり判らない。一般論的としては、できるだけ早く精神科病院を受診するべきだったと思う。しかし、外交の「内政不干渉」のように、他の家庭の判断にも「他家庭不干渉」ということになりやすい。

(映画のラストで父に問う)

 もう一つ、両親はどんどん老いていく。姉も還暦を迎えた場面が出て来る。病気や障害を抱えた子どもを持つ家庭は、「親が死んだらどうなるか」という大問題を抱えている。この家庭の場合、弟がいたので結局親の介護も含めて北海道に戻ったようである。しかし、そういう条件がない家も多いだろう。やはりしっかりと受診して「障害者手帳」も取得し、地域の社会保障システムにつなげるしかないんじゃないか。自分がいつ死んでも大丈夫なように公的な対応を考えるべきだ。この家庭は経済的には問題なかったらしいが、本当に「どうすればよかったか」。普通の意味での映画鑑賞とは違うが、重い映画体験だった。

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映画『小学校~それは小さな社会~』ー東京の公立小学校から見えるもの

2024年12月19日 21時57分51秒 | 映画 (新作日本映画)

 山崎エマ監督『小学校~それは小さな社会~』という映画が評判になっている。まだ東京の一部映画館などに上映が限られているが、これから各地で上映が進んで行く予定である。この映画は東京都世田谷区の公立小学校に密着取材して、「日本の初等教育」を見つめた映画だ。700時間の撮影を行い、監督自身は4000時間も現場の学校に滞在したという。そこから99分の映画に凝縮したわけだが、その結果感動的で興味深い子どもたちの様子が見えてくる。また2021年度という「コロナ禍の学校」、先生たちが毎朝消毒し、子どもたちは「黙食」し、宿泊行事が中止になるという苦難を永遠に記憶する映画にもなった。

 山崎エマ監督は、イギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、大阪の公立小学校を卒業した。その後、中高はインターナショナル・スクールに通って、アメリカの大学へ進学した。ニューヨークに暮らしながら彼女は、自身の“強み”はすべて、公立小学校時代に学んだ“責任感”や“勤勉さ”などに由来していることに気づいたという。そこで公立小学校を長期取材しようと試み、世田谷区の学校で可能になった。小学1年生を撮影するために、事前に入学前から子どもたちや家族を取材している。その結果、「入学式から卒業式まで」、桜に始まり雪で終わる「日本の四季」を背景にした日本の教育を「物語」として見事に編集している。実に見事で、面白くて、考えさせられることが多い。「映画」「教育」という枠を越えて多くの人に見て欲しい。

 この映画の特徴は「特活」を日本の教育の特徴としてとらえていることだ。ホームページには「本作には、掃除や給食の配膳などを子どもたち自身が行う日本式教育「TOKKATSU(特活)」──いま、海外で注目が高まっている──の様子もふんだんに収められている。日本人である私たちが当たり前にやっていることも、海外から見ると驚きでいっぱいなのだ」とある。掃除や給食もあるけれど、それ以上に「行事」や「児童会活動」が取り上げられている。例えば「放送委員」の活動。まるで一組の男女児童が毎日やってるように見えるけど、実は毎日違った5組の児童が担当しているという。全員撮ったけど、結果的にある一組だけになったのは、運動会の縄跳びが不得意な子どもがどうなるかという「絵になる」シーンが撮れたからである。

 特活というのは「特別活動」の略で、小学校学習指導要領では「学級活動」「児童会活動」「クラブ活動」「学校行事」に分れている。中高ではクラブ活動がなく、残りの3つだけ。(「学級活動」は高校では「ホームルーム活動」、「児童会活動」は中高では「生徒会活動」。)ちなみに「学校行事」は「儀式的行事」「文化的行事」「健康安全・体育的行事」「遠足・集団宿泊的行事」「勤労生産・奉仕的行事」に分れている。清掃や給食当番は「学級活動」の中に明記されている。学校で掃除をするのは、何も「日本人の勤勉さ」「日本文化の特色」ではなく、法的拘束力がある指導要領に書かれているからである。

 僕も特別活動は非常に大切だと思って教師時代に仕事をしていた。僕の場合、自分の関心と経験から「旅行行事」を担当することが多く、自分でも面白かった。映画を見てれば判るが、行事の面白さは子どもたちの日常とは違った顔を見られるところにある。思った以上の頑張りや思いやり、連帯感などが発露され、教師も感動する瞬間があるのである。この映画を見て、「教師の大変さ」だけでなく「教師の魅力」も感じ取って欲しいと思う。しかし、この映画には出て来ない部分もある。

 僕は最後に夜間定時制高校や三部制高校に勤務して、「特活」以前に「学校に来て授業を受ける」ことの重大性を痛感した。やはり学校の中心は「授業」であり、「進路」なのである。公立小の生徒はかつてはほとんどが地域の中学に進学するものだった。しかし、都立中高一貫校設置以後、公私の中高一貫校を受験する小学生が多くなった。世田谷区は地域的にも私立学校が多く、かなりの児童が私立受験をするんじゃないかと思う。しかし、6年生を撮影しながら「進路活動」が全く出て来ない。日本人観客からすれば、むしろ進路をめぐって葛藤する様子こそ知りたいことなんじゃないか。

(山崎エマ監督)

 また小学校教育としては、2020年から英語が必修教科となったという大変化があった。学校として英語にどのように取り組むか、試行錯誤していたはずである。もちろん小学1年生にはまだ関係ないけれど、6年生にとっては非常に大きな問題だろう。その問題も全く出て来ない。もちろん映画は作る側が自由に課題を設定して編集するわけだが、あえて描かなかった面がたくさんあることも忘れてはいけない。そして中学や高校になると、果たしてこういう取材を受けてくれる学校が見つかるか。中高教員からすれば、小学校がうらやましい感じもするんじゃないか。それはともかく自分は私立に行ってたのに「公立学校はおかしい」などと平気で語る政治家にこそ、この映画を見て欲しいものだと思う。

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